海と暮らす
外の世界では相変わらず超音速の風が、絶え間なく恐ろしげな咆哮をあげている。メタンの吹雪とダイヤモンドの礫が地表のあらゆる物体に叩きつけるその乱暴な音は、惑星があげる悲鳴のようだった。
私はカプセル状のベッドルームから這い出して、居住空間の中央に鎮座している円筒形の水槽に歩み寄る。
冷たいガラスに額をくっつけてそれに声をかけた。
「おはよう」
いつものように、返ってくる言葉はない。ただ透明な水面が私の声の振動で僅かに波を立てている。
水槽の中で暮らしている私の同居者は、遠い先祖が地球から持ち込んだという「海」だった。かつて人類の故郷の惑星を覆い尽くしていた母なるスープ。
プランクトンや微生物を抱き、過酷な宇宙の塩辛い記憶が凝縮された、剥き出しの生命だった。
この原初の生命体を何億年もまだ飼い続けているのはきっと私くらいのものだろう。暴風が吹き荒れる外界に「他者」という存在が本当にあるのかどうかも私には確認できないけれど。
水槽の横にある配給機から合成タンパク質のペーストを取り出して、咀嚼を助ける補給飲料を注いだ。
「今日のごはんは香りが強い気がするね」
海に向かって微笑んでみせる。青白い光源に照らされて朝食という嘘を摂取する。
「いい天気だよ」
私は水槽に囁いた。
「空は明るくて、太陽は暖かく、砂浜に向かって白いカモメが飛んでる。ここは地球だよ」
まんまと騙された海は私の言葉に潮の香りとさざ波を返してくる。
約45億キロメートル離れた場所で太陽は何億年も昔に赤色巨星と化し、地球の海を干上がらせた。
人類がこの海王星という場所を次の棲み処に選んだ理由は、ただ自らが失った深い青に焦がれてのことだった。
巨大な氷と嵐の惑星で、私はまた人類の真似事をしながら朝食をとり昼食をとり夕食をとり、眠って目覚めるふりをして「24時間」という太古の嘘を刻む。
水槽の中でゆらめく海を見つめる。
私のついた嘘が、いつか本当になる日はくるだろうか。この水槽の中の小さな海が、いつか海王星の環境に適応して、いつか冷たい嵐を乗り越えて、惑星全体を覆う本当の海となる日がくるのだろうか。
「そうなったら私はあなたの中を泳いで楽しむよ」
水槽を指先でそっと弾くとそこから波紋が広がった。
地球の海は死んでしまった。でも私の海は、まだ揺り籠で眠っている。
私はもう一度「ここは地球だよ」と呟き、自分自身をもその嘘で包み込むように、次の24時間を刻み始めた。




