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物憂げ  作者: 山神伸二
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物憂げ

 打ち付ける屋根の音が心臓のように響いた。それが湯畑に響く音なのかは私にはわかりかねた。

 湯煙が漂う周辺で私はその硫黄の匂いに鼻を掴ませながらゆっくりと勾配な坂を歩いて行った。

 それを今更ながらに思い出し、湯畑の北西に位置する山梨館の三階で私は窓からの景色を眺めながら籐椅子に座り、そのことを思い耽っていた。

 平日だと言うのに、外は人でごった返し、私の静けさを求めた心はこうして、一気に裏切られていった。

 こんな場所にそんな思いを持ってきたのは私だけなのかもしれない。目に映る人々はどうも賑やかな喧騒を楽しみ、私のような憂鬱な面持ちを持った人間などは全くと言っていいほどに見られなかった。人々は私のその姿を見て、場違いに思うであろうか。同情するものはいまい。彼らにはそんな他人に目を向けて考え込む程、不愉快な性格をしていないのだから。なので、それと同時に私の気持ちもこんなに贅沢をしているのに沈んだ目で彼らを見ているのも私がこんなにも不愉快な性格なためであるのである。

 冷たいガラスに手が触れると、私はその手をガラスから離してしまおうと思うも、その私自身の情けないだるけさのせいで私はそれがじきに慣れるのをただじっと待っていた。二重硝子の奥の硝子に小さな汚れが浮いたように並び、その嫌に明るい汚れた色が私の中の心を思い浮かばせ、なんとも言えない気味の悪いものをじりじりととどまった。

 醜き、悪し私の目に映るものはまさに私の目を通して浮かんでくるのであるのだから、それ些か当然のようにも思われた。

 追い風に流れる湯煙にそれを見つめることに気がつくたびに私は妖艶とも言えるその私自身の妄想に吐き気を催すほどの嫌悪に襲われてしまうのであった。

 夕方になる前であるが、薄暗い部屋の中で電気をつけると、その明るさに昔の思い出が浮かび出し、私自身がまだ根暗な思いを持ち始め、だが、まだ純粋な思いをそれ以上に持っていた若き頃を静かに思った。

 その窓の否応に暗きものに私の幻影がありありと存在し、その明るさには憎たらしい程に私以外の人々がそこに確かにいたのである。

           ・

 夜の散歩に出たのはきっと私が孤独に溺れ、賑やかさの中に身を投じることで、私自身の憂鬱が紛れることを期待してのことであった。そしてそれはものの見事に外れ、私はより一層の孤独を味わい人々の中に入れぬ一抹の寂しさだけが冷たい風とともに吹いていった。

 湯畑の滝の轟音が遠くの方に響き、私は湯煙を身体中に浴び、その格好がどうしても情け無く、涙こそ出ないものの、周りの人々に笑われているように思った。

 そして一つの建物の前に行き、昔、そこでの行った仕事を悠々と思い出した。それは過去のものであるがこうして、私がこの場にいることによってそれが蘇り、恥ずべき記憶は消えることなく、私の思いを嘲笑うかのように私の心までもを支配していた。

 無言で立ち続けるその建物に私は苛立ちはとうに過ぎ、美しくも怪しげに天まで登る湯煙が私の目を奪っていくまでになっていた。

 そばでは四人の高齢の親子連れが湯畑を後ろに写真を撮ろうとしていた。それに話し掛ける勇気などない私はその様子を横見にみながら、私の目は真っ直ぐに向かっていたのである。そして背後には私のかつての仕事場。逃げた私をこんな形にでもして、捕えようと言うのだろうか。

 そして滝の近くに寄った私の耳はその音に全てがかき消され、ついには視界までもが湯煙の淡い白さに遠くが薄く映り、この世のものを思わせないかのように辺りを白く奪っていた。こうして、滝の前に立つと、湯気が顔に当たり、暑さと共に音がそれを私に伝えて来ている。なんとも極楽浄土を思わないことはなかったのである。私の身体は冷え始め、急足にもならない足取りで私は宿へと戻ることにした。

 宿に戻ったが、私の疲れがそうさせたのか、階段の踊り場の椅子に座り、部屋が目と鼻の先にあるのに、息切れをした私はそこでしばらく虚空を見つめ、そこに先程の湯煙が天に昇る光景を重ね合わせた。

           ・

 私は昔から温泉が好きなのであり、つまり、一度訪れた旅館の風呂は三、四回は入るのが当たり前であり、それも真夜中の際などは一人っきりなのもあって一時間程入浴していることもある。なので、のぼせてしまうこともあるが、そうはならないよう、私は常に気をつけながら温泉を楽しんでいる。

山梨館の湯は濁った緑色であり、足の先までが隠れてしまうほどの濁り具合であった。それが私にはうってつけの湯であり、その熱く気持ちの良い湯にそのまま溶けてしまいたい程に楽しんだ。温泉は酒よりも好きであり、それも酒を飲むよりも健康的である。

 湯に浸かりながら、様々なことも考え、巡らせる。それがより、根暗な私の考えをより働かせ、それが良いことも悪いこともその方に動かしてくれる。

 私は人を楽しませる仕事なのにその性格の暗さは意外にも良い方向に巡らせている。それは私の暗い性格は人々の笑いに変わっていくのであるからだと思われた。しかし、本当に根暗な私はその本当の性格を見せることはない。つまりは私の性格を反対にすればひょうきんで調子の良い人間が出来上がる。

 湯から頭を出しただけの生首になった所で私の体を徐々に無理を言ってきている。私はそこで湯を出て、体を少し外に当てる。

 山梨館は部屋数が少なく、これだけの素晴らしい風呂でありながら私は一度も他の客と風呂に入ったことがない。常に貸切風呂なのである。そこで私の情けなさをより深く考えることができたのである。

 部屋に戻ると、広縁にある窓を開け、籐椅子に腰を下ろし、草津の地酒の日本酒を口にする。滝の轟音がここにも響く、ただ、それもほんわかと軽くのぼせた程よい心地良さと日本酒に酔ったのも加わって、不思議と心地良かった。この音が一度も休むことなく何百年も続いているのである。それは私なんかよりもずっと素晴らしいことである。

 しばらくして体が冷えてしまい、窓を閉めるもその音は小さくなろうとも消えることはなかった。微かな音が途切れることなく、ずっと続いているのである。

 私の話はせいぜい長く一時間であるが、この轟音にはどうも負けていけない。

 この私の根暗にこの陽気の足元が見えそうにない。そしてこんなところにまできて、私はこんなことに悩み続けるのである。

 何のためにここまで逃げてきたのであろうか。誰にも言わずに、全てを捨てたように来たのに、その全てに取り憑かれながらこの場所に来ているのである。

 酒が底をつき、震えに襲われ、私は夜の風景に心を奪われ、湯畑が暗闇によって巨大な穴へと変わっていき、それが虚空の溝のように見えた。そんな幻覚じみたバカバカしさをしかと笑いながら、布団へと真っ先に逃げていった。

           ・

 女将が私を呼んでいた。それならいいのであるが、どうも私の芸名で呼んでいることがまずいのである。

 女将は私よりもいくつか歳が上のように見え、眼鏡をかけた。物腰柔らかそうな人当たりの良い方であった。だが、どうも、気を遣っているのか、いないのかが妙な事をする人であるのが、この旅館に来て思うことであった。

「空圓師匠、師匠。朝御飯ができましたけれど」

「今行きます。それと、芸名で私を呼ぶのは控えてもらってもいいでしょうか?その名を離れて私はここに来ているんでね」

「はあ、左様でしたか。申し訳ありません」

 女将はそうは言ったが、その後も何度か私を空圓だの師匠だのと呼んでいた。

 取り止めもないその名に女将の素直さが滲み出ていたように思えた。ある時に私は女将と玄関で話を弾ませたことがあった。

「師匠のお弟子さんと言うと、そろそろ真打になられる方もいられるのですか?」

「いやあ、まだ二ツ目がせいぜいですな。どうも師匠が師匠であるから、弟子も育たんのですよ」

「何を仰います。私は圓秀師匠のお弟子さんの中では空圓師匠が話の流れも上手く聞こえます」

 私自身のそのお世辞とも取れる言葉に苦笑を浮かべるばかりだった。どうもこの方は世間との調律が上手く取れていないようだった。私など、三流でしかないのである。

 朝食を召し上がった後に、部屋の窓際で籐椅子に持たれかけながら珈琲を飲み、徐々に増えていく観光客を眺め、その中に時折、二匹の猫が追いかけっ子をしているのに興味を持った。

 湯畑の下に潜り、そのまま出て来ずであるが、なんとも人に慣れた猫のようである。

 私は外に散歩でもしてみようかと思ったがどうも足が外に向かないのである。そのまま外を眺めるだけに終わり、私はこんな惨めな芸人なのに、自分の名が知られていると思い込んでいるようなのである。

 ただ、そのまま部屋の中で仕事も何もせずにじっとしていられる性分でもない私は廊下に出ると、すぐそばにある椅子に腰をかけた。

 廊下は部屋にいるよりも温泉の匂いが強く、その匂いに懐かしさとどこか天国を思わせるものがあり、私の今の状況を忘れさせてくれるものがあった。廊下には私一人しかおらず、三階の部屋の中では私だけが泊まっているのではないかと思われるほどであった。こうして逃げているのに、どこか緊張感がないのも私自身ですら実におおらかに駄目なものだと思うのである。

 階段を降りて玄関に顔を出そうと思い、私は席を立った。階段はきしむ音が鳴り響き、それが私自身の揺れを感じさせ、孤独の寂しさがその音に強く現れていた。

「空圓師匠、どうなさいました?」

「いや、暇しているもんで、外に出ようかと思ったんだが、どうもあそこは人が多くて、行く気にならなくて、でも、部屋に閉じこもっているのもなんだか体に良くないような気がする。風呂も先程入ったばかりだから、女将がよろしければ話でもしようかと思ってやってきたんです」

 女将は私を椅子に通した。玄関の外は観光客が常にいるのであるが、この旅館に入って来る者はいなかった。依然として時計の音が響く、静かな時であった。外の人達が私達の光景を見て、どう思うであろうか。異様にも見えるが自然なように見えるのであろう。なんともその不思議な景色は老舗故の伝統のような光景に思い、その場を後にするのであろうか。

「師匠はどうして急に来られたのですか?」

「ふと、遠出したい気持ちに襲われるんでね。熱海やら箱根やらただ、どうも海が近いところよりも山を越えて行きたくなって、静かな場所を求めて、山梨館なら、賑やかな場所に静けさを閉じ込めたように佇んでいるから、急なもので申し訳ないですが、お邪魔になりましたというわけで」

「それは結構なことで、私達はとても大歓迎でございます」

「そう思ってくれるなら私も嬉しいよ」

 ふと、やはり、硫黄の匂いが私を襲った。不快感があるわけではなく、むしろご当地故のもので私としては気分を高めるものであるのだが、女将は何も感じないかのようにそこにおり、人は慣れてしまうものなのだと思った。

「秀太郎師匠は残念でございますね。まだお若いのに」

「ああ、圓秀。彼はうまい話ぶりだったから、やはり、我々の中でも悲しみは大きいもので」

 女将はそこで何かを察したようであった。私は少し声を荒げて

「いや、圓秀が亡くなったから傷心に来たわけではないんだ。ただ、少し今いる場所から離れたくなっただけで」

「はあ。そうですか」

 それでも、女将の悲愴な顔つきは消えなかった。それがいつの間にか、玄関の木々の色にもくぐもったような色合いが現れてきたように思えた。

「あいつは私の弟弟子でしたので、かわいがってやっていて。器用だったのでしょう。私よりも芸をうまくやって、いつしか師匠の名を継いでしまって、私としては合わせる顔がないくらい立派になってしまった。そして大往生とならないうちにいなくなってしまった。どこまでも素晴らしいやつでした」

 私の乾いた話ぶりはとても高座で見せるものではないと自分自身そう思っていた。こんな所を弟子や同業者には見せられはしまい。師匠などに見せていたら大目玉を喰らうであろう。

「私、先代圓秀師匠のレコードを持っていて、それから秀太郎師匠や、空圓師匠のレコードも持っているんです」

「へえ」と私は感心した声を上げた。いつか、テレビ局の依頼で私の話を録音したことがあったが、それを持っている人に出会うとは思わなんだ。

 女将はまずは私の師匠の話をかけた。やはり師匠はものの見事な話ぶり、私などは一生をかけようが、足元にも及ばない。私自身、師匠の話を聞いて、弟子入りを希望したのであるが、私は師匠の話を聞くたびに私自身の力の無さを強く感じ、廃業を考えるまでになり、妻の勧めで真打になったと同時に、高座のときですら、師匠の話を避けていた。そうすることで、なんとか、今の今まで芸人としていられることができたのである。だが、師匠も亡くなってからは話を聞くのもこのような形でしか聞けなくなってしまい、しばらく、私は自然と師匠の話を耳にすることは無くなってしまった。だが、こうして聞くと、私の話し振りとは全く違い、私はあの時、避けていなければ師匠のような間の取り方を奪うことができたのだろうかと深く考えてしまった。

 続いて女将は弟子の圓秀のレコードをかけた。初めは彼の声に乗って、圓秀師匠の創作話をしていたが少しずつ、その間や速さが師匠譲りであるように思えた。なるほど、確かにこの話ぶりを聞けば、師匠が自分の名を秀太郎に継がせるのもわかるはずである。だが、それでいて、ただの物真似にならない彼特有の話のしかた、それがまた聞き心地がとても良く、私は嫉妬心を燃やすこともできないくらいになっていた。

「女将、私の話はかけないでください」

 私は女将にそう言って、私のレコードを手に取った女将を静止しようとした。

「どうも、この二人の後に聞かれると、私の話の未熟さが露見してしまうので、私はそれを聞くと、どうしてもいられなくなってしまう。湯畑に飛び込んでもおかしくないくらいに発狂しそうなんだ」

 実際、私は血が頭に登っていた。これは才能が故の努力の結果であるが、私は過去の自分を強く憎んだ。そしていつまでも人のせいばかりにしている自分を情けなく思った。ああ、忘れてしまおうと思ってわざわざ遠いところまで来たのにこんな所でも二人の幻影に脅かされてしまうとは、この二人の影響の力が私自身の体の中に強く刻み込まれているのだと思った。

 玄関は明かりをつけていないからか、女将の顔の輪郭が薄く影に隠れてしまい、玄関の向こうからは滝の音に似た轟音が強く鳴り響いていた。

 だが、光り輝く地面をぼやけた玄関の扉の窓をふと見ると、私の美しさをわかる心がまだ存在し、急にその事を安堵するのだった。

「お茶もお出ししないで」

 思い出したように女将はそう言ったが、私にはそれが気遣いの底にある眠った優しさそのものだった。どうか、思い出さないで欲しいとさえ思う程に私は今の地位を恥そのものだと認めざるを得なかった。

 私はその日一日を旅館の中で過ごし、私の周りのことを全て忘れようと思いながら、時々、風呂に入っては二階吹き抜けの天井の窓ガラスに差し込む昼間の明かりが夜の明るさに侵食されていく様子を

忘れた頃に見ながら、時間の流れを楽しんでいた。

 そしてその電話が入った日の朝、私は早速とでも言うように、山梨館を後にした。

 部屋に女将が現れ、朝の風呂の湯上がりの趣がまだ抜けきらない時であり、私の見える事のない焦りは昂り天に登っていった。

「東京の方から、後藤という方からお電話が」

「そう、女将さんはなんて答えたの?」

 私の言葉に女将は怯えた声になり

「私は嘘をつかないものですから、正直に」

「ああ、そうですか。いえ、大丈夫です。なにせ私、東京の方から逃げて参りましたので」

「あの、どうされます?」

 私は少しばかり深く考え

「申し訳ないですが、早いうちにこの後にしようと思います。嵐のように過ぎ去るのを申し訳なく思います。急にやってきた私に心遣いよろしく、最上級のもてなしをありがたく思います」

 私は泊まった分の倍の料金を払い、午前のうちに草津を逃げていった。温泉の匂いは旅館を離れるときにでもこびりつき、私の浴衣は匂いがその日消えることはなく、尾鰭を引っ張って止めていくようであった。

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