実験#12
手首から血がこぼれていた。自分で刺した傷だ。
――細い手首を貫通しかけるほど深く突き刺したナイフを、震える手で取り除く。太い血管を断った傷口が致命的に開いて、手首から冗談かと疑う量の血液があふれ出る。
薄暗い倉庫の一角。痛みに奥歯を噛み締めて、手首をえぐった少女はしかし小さく背中を震わせる。──もったいない。流れ出て地面に落ちる自分の血がもったいないと感じる。ぽたぽた、ぽたぽたでは済まない勢いであふれる血液を、少女は恍惚として眺めていた。
唇を噛む。自らの思考の不自然を自覚して、黒い瞳に涙が滲む。反対に口の端には笑顔が浮かんで、それを噛み殺すように小さくえづく。
このままでは死んでしまう。血を流し尽くしてしまう。
少女は息を止め、小さく口を開けて、手首から流れ出る血の一滴を舐め取った。
*
「──勘弁してくれ」
苦々しく顔を歪めながら、ハカセが顔を背ける。その顔を確認して、彼女に突きつけていた刃物を下げる。半開きだった扉を押さえて、白衣の女性を研究室の中へ招き入れる。
「でも、研究室の出入りには警戒するようにとハカセが」
「それはもういいから。そんなものを私に向けるな、余計気分が悪くなる」
ずかずかと部屋の奥まで歩いて、乱雑に積み重ねられたクッションの山へ倒れ込む。言葉の通り、ハカセは本当に具合が悪いようだった。無理のないことだと少女は思う。
「あの男の人とは、仲がよかったの?」
「あー……いや、別に特別仲が良かったわけではないし、なんなら数回しか話したことはないと思うが……」口ごもって、「なんというか、私もろくでもない人間なんだなと再確認したところだよ」
言って、少女が淹れた安い紅茶を口に含む。わかりもしない香りを口の中で転がして、苦い感情を飲み下す。
「かつての同僚の亡骸を川に流してきたというのに、まだ私はこうして紅茶なんぞ飲んでいる」
――でも。と少女は言う。ハカセが罪に感じる必要は何もない。
「いいじゃないですか」
かつての同僚を、結果的に死なせてしまったって、構わない。
「だって、全部やり直せるんですから」
少女が口を挟んでから、ハカセはしばらく口をつぐんでいた。
ハカセと少女は今、逃亡中の身にある。ハカセは機密資料を持ち出した裏切り者として。そして少女は、研究施設から逃げ出した実験動物として。
紅茶の減りが今日は一段と遅い。待ちかねた少女は立ち上がって、研究室の戸棚を開ける。乱雑に収められた注射器の中から大ぶりなものを取り出した。ゆるく縛られた袖の紐を解いて左の腕を晒し、空の注射器をあてがう。そのまま針を突き立てようとして、ハカセに制止される。
ハカセに促されて、クッションに身を沈めた。頭を覆うフードを外し、乱れてしまった髪を指で梳く。生まれたときには黒かったはずの、色素の抜けた白い髪。何日か洗えない間に煤けてしまったかとため息をつく。ハカセは肌の消毒を済ませて、浅い角度で針を刺す。注射針の中に少女の血液が流入するのを確認して、慢性的に隈の濃い目を細める。少女の肩から肘の内側にかけて、目立たなくなった注射針の跡が無数に残っている。いくつかの新しい痕跡は昨日の分、一昨日の分、そして三日前の分。注射器の容量は、未だ半分も埋まらない。
異常な量の血液を外に出して、実験動物の少女は薄く笑う。血を外に出すのは、少女にとって必要なことだ。彼女の体は血を作りすぎてしまう。ハカセに辛い顔をさせたくなくて、少女は笑って嘘をつく。
「いいんですよ」
繰り返して、少女は言った。
「だって全部、やり直せるんですから」
少女は使い捨ての兵器として生み出された。
正確には、それを造り出すための実験体として利用された。本来成功するはずのない実験、少なくとも少女は成功例になるような段階にない使い捨ての素材だった。しかしいくつかの偶然が重なり、結果として。
少女はその所有者たちにとって、替えの利かない兵器になった。
少女は体から血液を抜く間、目を閉じていた。瀉血を終えて、注射器の針を抜く。目を開く。ゆっくりと瞬きを繰り返す。何に反応したのか、瞳孔は大きく開き、白目は赤く充血していた。
息を吐く。吸う。注射跡を指で押して、にじみ出た血の粒に口をつける。どくんと、自分の中で何かが切り替わる音。息を吸う。奥歯を噛む。息を吐く。
少女が顔を上げた頃には、呼吸は落ち着いていた。
左腕の内側を指でなぞる。数日分の傷跡はかすかな痕跡を残して全てが消えてしまっていた。
少女は実験動物だ。少女の血肉はもはやヒトのそれではない。尋常ではない身体能力と回復力を植え付けられて、そのためにいくつかの脆弱性を背負い込んだ。
少女は実験動物だ。その力にはいくつかの制限がかけられた。
いわく。彼女の本来の力をもってすれば、間違ってしまった全てをやり直せるのだという。
いわく。力を扱うには、彼女の肉体は不完全であった。
いわく。再現性のないその力は、少女の身体から切り離し、適合する器に移植する必要があった。
適合者探しはまず施設内の人間を対象に行われた。被験者から始まり、低位の職員、研究者。下から順に行われたその検査は、研究者の数人を調べたあと、停止された。適合者が見つかったからだ。
少女の力の移植に耐えうると認められた彼女は即座に特別な立場――事実上の被検体へと昇格、数ヶ月後彼女は――少女がハカセと呼ぶ元研究者は、少女をさらって研究施設から逃げ出した。
*
「ふ、ゎぁ……」
実験動物の少女は、腹にかけていた布を引きはがす。次いで顔の上のもふもふとした感触を両手で掴んで、適当に放る。クッションの山が崩れて、顔面にぼふんと落ちてくる。
朝だった。地下の研究室に窓はないけれど、感覚として少女にはそれがわかる。クッションをかき分け体を起こして、そのまま小さなあくびをした。
施設にいた頃とは違って、もう朝の検査は必要ない。起きるには早すぎる時間だ。もう一度眠ろうかと考えて、やめておく。ふらふらと立ち上がり、少し迷ってから研究室を出る。幅の狭いコンクリートの階段を上って、いくつかのドアを開けて。外に出ると、日はまだ昇っていなかった。
片田舎の、寂れた町。まばらな街頭と月明かりを頼りに少し歩けば、流れの速い川に突き当たる。河川敷に降りると、見慣れた背中が砂利の上でしゃがみ込んでいた。
「ハカセ」
「――っ」
少女が近づいて声を掛けると、びくりと肩を跳ねさせて振り返った。また隈が濃くなっている。息を引きつらせ、はずみに片足が滑って川の浅瀬に突っ込んだ。一瞬、少し長めに硬直してから、なんだ君かと小さな声。
「危ないですよ。一人で外出なんて」
少女が差し出した手を支えに足を引き上げ、ハカセは携帯照明の明かりをつける。取り乱したことを恥じるように、少女から目を逸らした。呼吸を整えて、口の端を笑みの形に引きつらせる。
ハカセのこういう姿を見るのは今日が初めてではない。それなのに、ハカセはいつも少女の前では平静を演じようとする。下手な演技が痛々しくて、少女は情けない気持ちになる。ハカセにとって自分は未だに、守るべき子どもなのだ。
ハカセはやがて笑みを作るのを諦めて、小さく息をついた。
「……君もよく眠れなかったか」
「私はいつも朝が早いですから。普段通りです」
少しぶっきらぼうに答えて、少女は川に近づいた。えいと跳んで、水の上の小さな岩に着地する。頭の上に手をやってから、フードの付いた上着は研究室に置いてきたことを思い出す。しゃがみ込んで、冷たい水をもてあそぶ。
「ハカセ」
呼んで、凍える水に手を浸す。深く、深く。手のひらが底についた。
「ハカセには、この川の底は見えますか」
意表を突かれたように、ああと頷く。
日が昇る前の川岸で、足元を見るのもおぼつかない。手に持った照明を近づけて、少女の沈めた手のひらに目を凝らす。そこに何かを掴んでいるわけではない。首を傾げるハカセをよそに少女は冷たくなった手を裾で拭いて、次に川の向こうを腕で示す。対岸までの距離は遠い。暗闇が邪魔をしてハカセの視線は対岸に届かない。
「草の陰にネズミがいます」
真っ黒な闇に目を向けて、少女は言う。言って、それから暗闇に向かって軽く跳ぶ。着地した少女の目線が高くなって、ハカセは初めてそこに岩があると気がついた。暗闇の中、ハカセには見えないものが少女には視えている。
「足をけがしてるみたいです。血が出てる」
「そうか」
きっとそうなのだろうとハカセは思う。ハカセの鼻を、夜のにおいがかすめた。けれど少女が息を吸えば、血のにおいが鼻につく。ふたりの感じる世界は、どうしようもなくかけ離れている。
風が吹いた。少女の白い髪が、携帯照明の明かりの中できらきらと揺れる。暗闇の中、少女の輪郭だけが幽霊のように浮かび上がっていた。
「ハカセ。私は人間じゃないんです」
真っ暗闇をじっと見つめたまま、ぽつりという。それを否定するだけの資格をハカセは持っていない。少女を実験動物にしたのは、ハカセが所属した施設の人間だから。
ぽつぽつと交わしていた会話が途絶えると、川の水音が意識に入り込んでくる。昨夜この川に流した元同僚の遺体は、今はどこまで流れ着いただろうか。
脱走したハカセの「説得」という名目で寄越された彼との交渉は、最悪の形で決裂した。結果として失われた彼の命に、ハカセと少女は責任を取らなければならない。
「――私は、人間じゃない」
左の手首を締めるように掴んで、少女は言う。
「私の力で全部やり直せるんだって、本気でそう思っているんです。……だから私は悪くないって、本気で」
手首の震えは、そんな自分への嫌悪感からくるもの。殺人を否定するべきだとわかっているのに、そうでない本心が自分の中にある。少女の血肉に宿った力で「全てをやり直して」、無数の可能性から思い通りの世界線を選び取って。そうしてすべて元通りだと、取り返しが利くのだと、他人の命を軽視する。それはまさに、人ではないモノの思考だ。
それでも、他に償う方法はない。少女の力をハカセに移植して、彼が死ぬよりも前から全てをやり直す。それがどれだけ傲慢で間違ったことであろうと、奪ってしまった命に責任を取る方法は他にないのだ。責任を取ることを諦めたら、そのときこそ自分は本当に化け物になるのだと少女は思う。
だから少女は嘘をつく。自分が嫌悪する人でなしの思考を、けれど受け入れなければ自分はもっと酷いモノになるから。他者の命を思い通りにできる能力を、持ってしまった以上は使わなければ悪人だ。手の届く範囲の死者を、救わなければ人じゃない。自分が人として死んでいくための嘘をつく。「いいじゃないですか」と、だから昨日はそう言った。
「ハカセ――お願いです。やり直した先の世界で、私を助けてください」
自分が、こんなふうにはならずに済むように。もっと普通の、ただの女の子として生きていけるように。
「だから、ハカセも」
少女が普通に生きるためには、普通の保護者が必要だ。だから、ハカセにも普通に生きてもらわないといけない。
少女はハカセの生き方を、そうやって縛っていく。利己的で、わがままな願いの形で。言葉遊びでも、そう言わないとハカセは自分のために時間を使えないから。きっとこの力で、少女と同じように苦しんでしまう。
少女とハカセ、普通じゃないふたりが、普通の親子みたいに生きていく。
――そんな幸せな未来を思い描くための、嘘をつく。
そんな未来がありえないと、少女にだけはわかっているけれど。少女の力が、そんな便利なものではないと知っているけれど。
それでも、それだからこそ、幸せな未来があるのだと、もっともらしい理屈をこねて死んでいく。そうして、それでこそ、少女は人間として死んでいけると思うのだ。
その嘘が結果として、ハカセの幸せを奪うのだとしても。
*
気がつけば、日が昇る時間になっていた。東の空が白く澄んでいく。空が青くなる前のわずかな光を眩しいと感じて、少女はハカセに目線を戻す。夜明け前の冷たい風が白衣の裾を揺らしていた。
苦々しく、無力を嘆くかわいそうなひと。この期に及んで何も言えない、自分にそれを許せない、その責任感が少女は好きだ。
「……お母さん」
ふと、そんなふうに呼んでみる。思ったよりも恥ずかしい。はにかんで、少し視線を泳がせる。気の利いた言葉が思い浮かばなくて、ただ「死なないでくださいね」と口にする。これから少女が騙して、ひとりぼっちにしてしまうハカセの、それだけが心配だった。
少女の言うそれが遺言のつもりで言っているのだと、ハカセは理解してしまう。歯を食いしばって、ハカセはそれを受け入れようとする。これから死ぬ少女が、けれどやり直せば生き返るのだとハカセは信じているから。
けれど違う。そうではないのだ。力の宿主である少女は、少女だけはいくらハカセがやり直したところで決して生き返らない。やり直す前の記憶を失わないのと同じように、命だって戻らない。
死んだまま、死に続ける。ハカセがどんな世界線を選び取っても、必ず。
それをハカセは知らないのだ。知らないから、ただこの世界線の少女の遺言としてそれを受け取った。
「――っ」
ハカセが唇を噛む。――嫌だ。違う。何かを否定したかったのだろう。勢いのままに口を開きかけて、ハカセはけれど声を呑み込む。ハカセには少女の力が必要で、その力なしにはハカセも、少女だってこの先長くは生きられない。研究施設での後悔も、実験でぼろぼろになった少女の体も、その力があれば元通りになるのだから。感情的な言葉を堪えて口をつぐむ。
結局、ハカセにできたのは情けない言い訳だけ。
「絶対に、幸せにしてやる」
少女の力で全てをやり直した後の世界で、幸せにする。絞り出した声で、ハカセが言えたのはそんなこと。それが叶うことはないのだと、ハカセはまだ知らない。
強く風が吹いて、ハカセの白衣を吹き上げる。はためく裾を押さえて、ハカセは川に足を踏み入れる。流水を蹴り分けて、石の上に立った少女の手首を掴む。
「私が、絶対に。お前を幸せにするから」
声もその手も震えていた。他の人には見せられないような泣き顔。少女は少し笑って、ハカセの頭を抱き寄せた。
川の中に足を沈めたハカセを、少女は岩の上から見下ろす形になる。ハカセの頭に白髪を一本見つけた。
反射した光を目で追うと、泳いだ視線は川の向こうにたどり着いた。夜闇が晴れていた。太陽が昇り始めている。
目線を動かして、土手の上に目をとめる。――人影。少女の視線に気づくと、踵を返して姿を消した。
そろそろ潮時か。小さく息を吐いて、覚悟を決める。今からハカセに力を譲渡して、それで少女の人生は終わり。
は、と息を吐く。今ハカセの顔を見たら、きっと未練が増えてしまう。ハカセを強く引き寄せて、胸の中に抱き込む。
体中の血液が熱く湧くような感覚。それが実験動物として植え付けられた体質によるものなのか、それとも別の理由があるのか、少女にはもうわからなかった。
太陽が昇った。少女には眩しすぎる白い光が夜闇を払う。風が吹いて、世界を朝に塗り替えていった。太陽の光に適応できない少女の視界は眩しい白に染まっていく。じきに物の輪郭も掴めなくなって、白い白い光の世界にひとり取り残される。
どくん、どくんと心臓が強く脈を打つ。心臓から汲み出された熱は身体中を巡り、じきにハカセの体温も分からなくなった。太陽の強い光に照らされた、白い白い世界の中。腕の中に感じるハカセの鼓動に抱きすがって――
「え……?」
――どくんと、弾けるように鼓動が乱れた。パン、と乾いた音が遅れて届く。腕の中に抱いたハカセの身体が、力を失って重くなる。
太陽の光に照らされた、白い白い世界の中。少女は膝を折ってくずおれる。パン、パンと銃声が続いて、脇腹を抉られるような痛みが少女を襲った。
痛い。少女の体は痛みに慣れていても、心が軋むことは避けられない。無視できない激痛を、それでも少女は無視して目を開ける。眩しい光で真っ白に染まった視界の中、ハカセの姿だけははっきりと見えていた。
「――生きてる」
治療があれば生きられる程度の傷。けれど目の焦点が定まらず、呼吸は千々に途切れている。ほ、と息をついて、少女は困ったように笑う。最後には笑った顔を見たかったのだけれど、どうやらそれは叶いそうにない。
ハカセを救う方法はふたつ。ひとつは、研究施設の連中に投降して、適切な治療を受けること。それが嫌なら、この場で少女の力をハカセに譲渡して、傷を受ける前からやり直せばいい。
少女の再生力があっても、傷を再生するには時間がかかる。ハカセが意識を取り戻すまでに、少女は命を落とすだろう。
顔も名前も思い出せない父と母を想う。確かに存在したはずで、けれど籍も記憶も、痕跡すらも残っていない彼らのこと。
――一度死んだ人間は、決して生き返らない。
それを覆す少女の力は、きっと別の何かを代償に成り立っている。帳尻合わせのために、この世界は歪んでいく。
ハカセの体から、じわじわと赤い血が流れ出ている。少女が傷口に手を当てると、少女の身体から溢れ出た赤い血液がハカセのそれと混ざり合う。体を密着させているから、どこからが少女の血液で、どこまでがハカセの血なのか分からなくなる。
ぽた、ぽたと血は水面に滴って、川の流れに揉まれ透明になっていく。
見渡せば、一面の白。太陽の光が少女の目を灼いて、目を開けているのも辛くなる。
赤と白だけになった世界。血に濡れたハカセの白衣を探って、ポケットに小さな刃物を探し当てた。強い光の中で、もはや色など見えはしないけれど。それはきっと、銀色だった。
どくんと、少女の中の何かが切り替わる音。なんだか面白いような気分になって、くす、と少女は笑う。ハカセの体は、だんだんと軽くなっていくような気がした。私はこれから、この人を救うのだ。
救う、救う、救う。そのためならば、命を投げ出しても軽いような気がした。
どくん、どくん、どくんと心臓が脈を打つ。失った血液を補うみたいに熱を汲み出して、燃えてしまいそうなほどに身体が熱くなった。光が眩しくて、もう目は開けていられない。まぶたの下で、瞳はきっと赤く充血している。
かふ、とハカセが血を吐いた。内蔵まで傷ついてしまったらしい。それも少女の力なら治せるだろう。あはは、あはは、あははと面白くなって、早く助けてあげなくちゃと気が急いて――ぽたりと、涙が落ちた。
少しだけ、まぶたを開く。ハカセの顔を目に捉えた。きり、と歯を食いしばって。左の腕を横に上げる。強く風が吹いて、ゆるく縛った袖が解ける。袖口が翼のように広がった。
袖口から晒された手首に、銀の刃物を突き立てる。奥歯を噛んで、傷口を拡げ切り裂いた。噛み殺した声が漏れるけれど、それも鼓膜の向こう。自分の声が遠ざかっていく。そのまま、身体の中から血液が十分に抜けるのを待つ。少女の身体に宿った力を受け渡すために必要なことだった。
朝が夜を塗り替えた、きらきらと輝く川の上。手首から漏れ出る赤色は、びちゃびちゃと音を立てて川に落ちる。視界がだんだんと狭まってきて、白も黒も分からなくなった視界の真ん中に、少女はハカセの顔を探した。
薄く呼吸を続ける、ハカセの顔。よく見えないからと顔を近づけて、少女は小さく笑う。ハカセの口の端に指を添えて、無理やりに口角を上げてみる。あははと笑って、はあ、と息をつく。こんな笑顔では物足りない。
少女は息を整えようとするけれど、どうしても息は静まらない。ひゅう、ひゅうと喉を空気がすり抜けて、それでも苦しさが収まらない。全身から力が抜けて、目尻には涙が浮かんだ。上も下も分からなくなって、ハカセと折り重なって倒れ込む。
ハカセの胸に顔を埋めると、温かさを感じて少し安心する。少しの間だけ、柔らかい感触に体重を預けた。
とくん、とくんと鼓動を聴くうちに、いつの間にか川の流れる音も聞こえなくなって、少女の世界が狭まっていく。ずっとこうしていられたらと思うけれど、遠ざかる意識の中に追っ手の迫る音が聞こえた気がして、少女は焦ってしまう。
肘をついて、なんとか体を持ち上げた。目をつぶって、開ける。眩しい。何も見えない。聞こえないし、鼻は血臭で麻痺してしまった。浅い息を繰り返して、消えてしまいそうな意識を手繰り寄せる。
手探りでハカセの口元を探り当てて、もう片方の腕――手首を切った方の手を添える。もう随分と少なくなってしまったような気のする血液を押し出そうと、血の固まりかけた傷口を指で抉った、脳髄に突き刺さる痛みが今更のように主張する。
心臓から汲み出される熱の感覚はもう尽きていた。身体の端の方から冷えていくような感覚が支配して、だんだんと視界が暗く――
「……眩しく、ない」
視界を塗りつぶしていた太陽の光が収まっている。太陽が陰ったのか――いや、ちりちりと首筋を灼く熱の感覚が、そうではないと主張している。
風にそよぐ川辺の草。きらきらと光る水面に、川をまたぐ欄干が反射して映る。顔を上げれば、青く澄んだ朝の空が目に入っただろう。血臭にむせる少女とハカセをよそに、世界は朝を迎えていた。久しく忘れていた朝の光景、しかし少女はそれに気を払わない。目線の先、ハカセの体が強く熱をもっていた。
――どくんと、ハカセの中で何かが切り替わる。
爽やかな朝、陸と隔たれた岩の上。少女の目線の先で、ハカセの腹に空いた傷が醜く蠢いた。ぶくぶくと血の泡を吹き、血を固める。出血が緩やかになって、醜悪に、確実に肉を作り傷を埋めていく。
力の譲渡は、どうやら成功した。
「ぅ……ぁ」
ハカセの喉が、掠れた息を漏らす。苦しげに咳き込んで、薄く目を開いた。目は充血して赤く染まっている。
ハカセ、ハカセと少女が呼びかけると、苦鳴を押し殺したような声で返事をする。だんだんと意識がはっきりしてきて、
「っ、待て、死ぬな!」
意識がはっきりして、少女の状態を理解する。
ハカセの身体は瀕死の状態だ。腹に深い傷を受け、血を流して、水に濡れた衣服が体温を奪う。間違いなく重症で、今意識を取り戻したことさえなにかの奇跡としか思えないのに。
そのハカセと比較してさえ、少女の傷は深刻だった。赤に染まったその衣服が彼女の血液をすべて吸い尽くしてしまったかのように。肌は蒼白で、指に力はなく、もはや生きていることが奇跡だった。意識を保っていることが異常だった。
その異常をハカセに譲ってしまった少女が、もはや生きられる道理は無くて。いまは、その気力だけで数分の命を繋いでいる。
「力の使い方を教えてくれ。すぐにやり直す。その傷も、なかったことに――」
言いながら、ハカセもわかっている。――無理だ。少女から受け継いだ力は、そういうものではない。そういう、誰かを助けられる力では、ない。
「ハカセ」
何をすることもできないハカセの顔に手を伸ばし、少女は慈しむように髪を梳く。さっき見つけた白髪を一本、引き抜いた。
痛、と顔をしかめたハカセを見ていたずらに笑う。けれどハカセがあまりにも苦しい顔をするものだから、少女はまた嘘をつく。
「大丈夫です、ハカセ」
――今はまだやり直せないですけど、時間が経てば力が定着しますから。
それは本当。だけど少しでもハカセを安心させたくて、死んだあとのことはどうでもよくて、少女は言う。
「だから、私が死んだらやり直して、私を助けてください」
そして、どこかで一緒に暮らしましょうと。ハカセの笑顔が見たくて少女は言う。決して叶わない願い。決して償えない嘘。それがハカセを絶望させると分かっていて、それでも今ハカセと同じ気持ちを共有できるのなら。それが少女にとって幸せなことだった。
最期の時は、ハカセと一緒に笑っていたい。
だから、少女はまた嘘をつく。
「ハカセがやり直した後の私は、何も覚えていないと思います」
ハカセが一瞬、顔を悲痛に歪める。少女の記憶が消えると聞いただけで、この人は心を痛めてしまう。だから、少女は残酷な嘘を繰り返すしかないのだと思う。上体を起こしたハカセの胸に額を預けて、細く息を吸う。震えないように。
「最初はハカセのこと、拒絶すると思います。だけど根気強く接したら、私は案外ちょろいです」
頭の上で、ハカセが小さく笑う気配。薄い胸の筋肉が強ばっていて、涙をこらえるみたいな沈黙。続けて少女は言う。
「だから、安心してください。こうして力を受け渡せたのも全部、予定通りじゃないですか。ハカセは十分頑張りました。頑張ったから、全部やり直せるんです」
切れ切れになってしまう少女の言葉を、ハカセは辛抱強く聞いていた。重心を見失って崩れる少女の体を受け止めて、ハカセは腕の中に少女の頭を抱きとめた。ハカセの赤くなった白衣で少女の視界が埋まる。
「約束する。全部やり直して、全部ちゃんと決着をつけたら、その時にまた会おう」
──その時には全部終わってる。その時にはもう普通に過ごせるはずだから、と。
夢物語じゃない、きっと叶うはずの未来だ。ハカセの瞳が、ちゃんと未来を見ているのが分かる。分かって、少女も嬉しくなる。
「その時まで、待っていてくれるか」
そう問いかけるハカセの瞳が不安みたいに揺れていて、少女は少し面白くなってしまう。少女の答えは決まっている。彼女がハカセを拒絶するはずがないし、ハカセの覚悟を尊重したいとも思う。
ざあざあと、激しく流れる川の音。きらきらと輝く太陽の光が、ハカセの髪を透かしていた。赤く充血してしまったハカセの目が、まっすぐに少女の瞳を見据えていて。この時間が、永遠にでも続けばいいのにと思ってしまう。少女のことを想って。少女の嘘にすがって。これからの、存在しない未来を、少女と一緒に考えてくれる。少女と同じ赤い血にまみれて、顔にまで血がついてべたべたになってしまったハカセが堪らなく愛おしかった。
答えは肯定。心の中で用意した答えを、しかし口に出すのが躊躇われて、ほ、と息を吐く。
やり直した先の未来で、今の記憶が消えてしまっても。少女は必ずハカセの迎えを待っている。それは嘘だ。今の自分も、記憶を失った自分も、ハカセが能力を使ってやり直すのと同時に世界から退場して、ハカセのこの先に登場することはない。
けれど、それでいい。それがいい。そうありたいのだから、少女はハカセの問いに肯定で答えて、幸せな嘘を完遂させるつもりだった。
待っていてくれるか、と。ハカセの問いに答えなかったのはだから、ちょっとした悪戯心だった。自分を想ってくれるハカセの瞳を、もう少しだけ独り占めしたいと思ってしまって。少女の遺言になる決定的な嘘を、一瞬だけ躊躇ってしまった。
先延ばしにして、けれど答えるつもりだったのだ。最後に嘘を誓って、いちばん幸せなままで消えていきたかったのだ。
身勝手だ。残酷だ。分かっている。けれどこれから世界に、ハカセにさえも存在を忘れられて、全てをなくしてしまう少女には、それくらいの報いがなくては無理だった。ハカセに、少女にとっての全てに、自分を忘れられてしまうと分かっていて、笑って死んでいくなど少女にはできそうもなかった。
ハカセの瞳が揺れる。目が泳いで、口を開こうとしたのを遮るように。くす、と、耐えきれなくなった少女が笑う。なんだか面白いような気分が込み上げてきて、少女はからからと無邪気に笑う。
血を見てから浮かび上がっていた気味の悪い興奮も今では収まって、ハカセの血を舐めたくなる衝動もない。体内の血は当然足りないけれど、それは正常な人間としての感覚だ。
ふ、と、ハカセの口元が緩む。止まっていた手をまた動かして、少女の髪をゆっくりと梳き始める。なんだか懐かしいような気のする、日曜日の朝だった。
透明な朝のにおい。きんと冷えた冷たい空気。寒くて体が震えるけれど、じっと待てば肌の感覚は慣れてきて、ぽかぽかとしたハカセの体温に焦点が合う。ハカセの細く苦しげな吐息が耳のそばを掠めて、くすぐったくなる。ハカセの傷口からじくじくと溢れてくる熱の感覚が、自分を見放し、ハカセを癒す気味の悪い化け物だ。その全てを記憶に焼き付けて、一瞬だけの思い出にしよう。ハカセの問いに応えようと、口を開いた。
「ハカセ――」
*
――「いつまでも待っています」と、その言葉は続くはずだったのだと思う。
「っ――はぁっ、は……あ」
飲み込んでしまった水を吐き出して、ハカセは辛うじて身体を持ち上げる。急流から身を遠ざけて、流れ着いた岸に背中を投げ出した。
――庇われた。それを自覚しながら、ただ息をする。目を灼かれる感覚を嫌って、顔を腕で覆い影を作る。
少女の言葉を遮ったのは、施設の追っ手が放った銃の音。まぶたの隙間から、川の下流を覗き見る。途中までハカセがしがみついていた少女の身体は、ハカセを置いて行ってしまった。
はあ、はあと息をついて、胸に抜けた穴を意識する。致命的に埋まった弾丸を、醜い肉が押し出して傷を塞ぐ。けれど血の勢いが収まらなくて、塞がらなかった傷から血があふれる。
真っ白な朝の川岸。赤い血液が、砂利の隙間に入り込んでいく。その様子がどうしてか蠱惑的に思えて、ハカセは恍惚として眺めていた。
口の端を歪める。不自然に歪んだ思考を自覚して、自分が少女の力を引き受けたのだと感じ取る。
赤く血に染まった小石を掴んで、ぼやけた目の前にかざす。血。血液。これがやり直しを引き起こす引き金だ。舐め取って飲み込めば、傷なんかすぐに塞がる。それ以外の何もかもだって元通りにやり直せる。
少女だって、帰ってくる。
少女との約束を思い出す。『全てをやり直して、少女と一緒に普通に生きる』。研究施設との因縁を断ち切って、少女から受け継いだ力など必要にならないような人生を手に入れる。
それがどれだけ幸せなことか。思い浮かべて、けれどハカセはその顔を悲痛に歪める。夢物語じゃない、きっと叶うはずのその未来を、しかしハカセは望まない。望めなかった。
「ごめん……なさい」
血を口にして、もう一度全てやり直すべきだとわかっている。それが少女との約束で、彼女の希望だったのだとわかっている。実験で身体をぼろぼろにした彼女にはそれしかなかったのだと知っている。
それでも、それでも――彼女は死んだのだ。少女はもう死んだ。生きていない。この世界にはもういない。やり直した後の世界の、そこにいる少女はハカセの知る少女じゃない。たとえ彼女と再会しても、思い出を語り合うことはできない。施設での苦しかった日々も、逃げ出した夜の凍える寒さも、研究室でのだらけた時間も。
だってそんな出来事はなかったから。少女と過ごした時間は、また全てが『なかったこと』になる。
わかっている。わかっているそれがどれだけの勝手で、慣れれば消える程度の感傷なのかと。でも――
「ごめんなさい」
どうしても、手放したくなかった。
「ごめんなさい」
謝罪する。これがどれだけの裏切りなのか、ハカセには想像するしかできなかった。
「ごめんなさい」
『お母さん』と、そう呼ばれた。呼んでもらえたことがどれだけ大切だったか、きっと少女にだってわからない。『助けてください』と頼られた。それがどれだけ愛おしく思えても、叶えてあげることはできないと思った。
それで、嘘をついた。綺麗なまま終わりにしたかったから。
「ごめんなさい。許して、ほしい」
手の中に握った赤い小石に、力を込めると砕けてしまう。細かく割れた石の欠片を、砂利の上にぱらぱらと落とす。人間から外れた力を、気味が悪いと思った。
朝に照らされた砂利の上。流れる水がうるさくて、血の匂いが鼻を刺す。心臓から汲み出された熱の感覚が、ぐるぐると身体の中を回っている。胸の傷が塞がらなくて、どうやら私は死ねるらしい。
はあ、はあと息をする。息を吸ったら視界が少し明るくなって、晴天を知覚する。息を吐いたら苦しくなって、上も下も分からない。
はあ、はあとうるさい呼吸を静かにして、口の端を歪めて笑みを作る。化け物のくせに、泣いてしまうなど許せないから。
もう全部、終わりにしたいとそう願った。