6.嫌われ者だ
事態が変わったのは太陽が傾き始めた頃。
「ん?」
ガタッ
それまで退屈そうに茶を飲んでいたバトエルデニが突然立ち上がり、森の奥を警戒し始めたのだ。ウラディミールは彼女の異様な行動に怪訝そうな顔を浮かべる。
「どうした」
「今、森の奥から悲鳴が聞こえた」
「参加者が怪我でもしたか。よくあることだ」
「いや……複数人の怒号も聞こえるし、獣の唸り声も聞こえる」
「なに?」
バトエルデニは頭上にある耳をすまし、何が起こっているのかを注意深く探る。
ーーーおい、なんだこいつらは!
ーーーヒヒ―――ン!
ーーー誰か早く捕まえろ!
ーーーグルルル!
ーーーギャンギャン!!!
聞こえてくるのは、人間の悲鳴や怒号と馬の嘶きが複数、獣(恐らく野犬の類)の吠える声が3つ。それはどんどんと人の集まる会場へと近づいてきている。
「ウラディミール」
「あぁ。確かにただ事ではなさそうだ」
「ん?何か悲鳴が聞こえないか?」
「えぇ?……本当だ。しかも、近づいてきてる?」
「何?」
ウラディミールに続き、会場にいた人々も遅れてようやく悲鳴に気付き始め、場は一気に緊張感に包まれた。そうして誰もが固唾を飲んで森を警戒するなか、奥から何かに追われるように馬に乗った男たちが飛び出してくる。
ガサッ!
「た、大変だ!野犬が暴れている!あいつら逃げても逃げても追いかけて来るんだ!助けてくれ!」
男たちは情けなく悲鳴を上げながら会場へと逃げ込んできたが、それは同時に会場へと危険な獣を引き連れてきてしまったことを意味していた。彼らは彼らとして必死だったには違いないが、ここには多くの戦えない貴族たちが集まっている。
ザワッ
「何だって!?」
「おい、ここにいたら危ないんじゃないか?」
「逃げたほうがいいのか!?」
会場は当然パニックになった。
「貴族たちを全員後方に退避させろ」
「はっ!」
「衛兵は迎撃の準備を」
「了解しました!」
ウラディミールは指示を飛ばしながらも、自身も護身用の剣を手に取る。
ーーーカチャッ
そんな彼を、バトエルデニは意外そうに見つめた。
「お前も戦うつもりか?というか、戦えるのか?」
「戦好きの先代の以降で人並み以上の手ほどきは叩き込まれている。それよりお前も、」
「ーーー来るぞ」
「……そのようだな」
ガサガサガサッ
「ガゥゥゥゥゥゥ!!!」
「ワンワン!」
「グルル……」
現れたのは、目を血走らせながら口から泡を垂らす、3匹の猛犬だった。その様子はどう見ても正気ではなく、何かしらの病にかかっているのは誰の目から見ても明らかだ。
「「「ワオォォォォォォン!!!」」」
「すっかり正気を失っているな」
「そうだな。お前は下がっていろ」
様子の可笑しい野犬を前にして、ウラディミールはバトエルデニを庇うように一歩前へ出る。
その行動は男として、夫として、自らの妻は守るべきというアリョール王国に生まれた男児としての当然の価値観から出た自然な行動だったが、相手が悪かった。
「フン。誰に言っている?」
バサッ
「!おい……」
後ろに下がらせたはずの妻はウラディミールを押しのけズイッと前へ躍り出て、重たいドレスをたくし上げながらそばにあったテーブルへと足を掛ける。その手にはいつの間にか弓が握られていた。
「全く、やはりこういう場にドレスは不釣り合いだ。動きづらくて敵わんよ」
そう不遜な笑みを浮かべ、ドレスを翻しながらテーブルへと飛び乗ったバトエルデニに、人々が何事かと注目する。
「な、なんだ?」
「王妃がテーブルに」
「何故弓を持っている?」
人々の怪訝な視線を集めるなか、彼女は一つ二つ、コンコンと咳払いをすると、深く息を吸い込み空に向かって大きく吠えた。
「アオォォォォォォン!」
「!?」
「……!」
「!」
木々をピリピリと揺らしながら天高く響き渡る遠吠えに、ウラディミールも会場にいた貴族たちも、それまで正気を失い唸り声を上げていた野犬たちまでもが呆然と驚く。
「アオォォォォォォン!」
しかし彼女がもう一声吠えると、野犬たちも後に続くように吠える。
「ウゥ……ワオォォォン!」
「ワオォォォン!」
「ワオォォォン!」
バトエルデニは遠吠えを続けながら、ゆっくりと弓を構える準備をする。野犬たちはそのことに、気づく様子もない。何度か遠吠えを繰り返した後、彼女はすぐさま弓を掲げ、野犬へ向かって弓を射た。
「ーーーーーー、」
たとえ故郷の地を遠く離れ、淑女としてのたおやかさを叩き込まれようとも、彼女の卓越した弓の技術は衰えることなく、矢は群れの中で一番大きな体格の野犬の首を正確に射貫く。
ーーーヒュッ
「ギャインッ!」
「次」
ーーーシュパッ
「キャンッ!」
「次」
最初に射た犬が群れのリーダーだったのだろう、統率者がいなくなると他の犬たちはすぐに勢いをなくし、次々にバトエルデニに狩られていく。
ーーースパンッ
「キャインッ!」
「…………ふぅ、これで終わりだな」
3匹目を狩り終えて暫くは周囲を警戒していたバトエルデニだったが、他に脅威がないことを悟るとようやく弓を下ろし満足そうに息を吐いた。
「…………」
しかし、会場にいた者たちは今しがた起こったことに、まだ呆然と立ち尽くしたままだ。というか、どんな反応をしたらいいのか分からない、といった感じだ。
「……バトエルデニ 」
そんな凍りついた空気のなか、一番に動いたのは彼の夫であるウラディミールであった。
「あぁウラディミール。どうだ?3匹とも一撃で確実に仕留められたぞ。王国の人間たちにはいい見本になれたのではないか?」
「そうだな。とりあえず、テーブルから降りろ」
バトエルデニは誇らしげな気持ちで差し出されたウラディミールの手を取り、テーブルから降りた。これでこの緩い狩猟大会の士気も上がるのではないかと、彼女はそう考えていた。
「……………………」
しかし、すぐに会場の冷え付いた空気に気付き「どうやら何か間違えたようだ」と察した。
そうしてこの年の狩猟大会は、最悪な空気のままに終了した。以降、アリョール王国の新しい王妃は人々に“狼王妃”と呼ばれるようになった。
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「んっ…………」
朝日と共に、バトエルデニは目を覚ます。
「なんだか、懐かしい夢を見ていたな」
夢に見たのは、まだ彼女が王宮に入りたての頃の記憶。あの頃、バトエルデニはまだ変わらない自分のままで王宮で生きていけると思っていた。しかし、だんだんと悟った。
“周りに変わってもらうことを期待するより、自分が変わってしまった方が楽だ”、と。
川の流れに逆らい続けるよりも、時には流れに沿うほうがいいこともあることを、バトエルデニはこの5年で学んだ。
彼女ももう21歳。大人になったのだ。
早く起きてもすることがなければ、段々と起きる時間も遅くなっていった。村ではしなかったスキンケアの習慣もできて、甘いお茶の味にもすっかり慣れた。
「(こんな未来、想像もしていなかった)」
ここは生きるのも精一杯の雪原とは違い、暖かくて食べるものにも困らない。
「(それなのにどうして……)」
こんなにも息苦しいのだろう。
バトエルデニにはいつまで経っても、王宮が自分の居場所だとは思えなかった。それは主に、周りが未だにバトエルデニをちゃんと王妃として扱っていないせいでもある。
口では「王妃が」「王妃として」と言いながらも、その扱いはどこかよそよそしく、他人行儀。さらには今では誰もが彼女を影で「狼王妃」と呼んで軽んじている。バトエルデニに聞こえているとも知らずに。
そして夫であるウラディミールは、逆に出会ってから今日まで、徹底して態度が変わらない。時間をかけて夫として甘く優しくなることも、いつまでたっても王妃として相応しくなれない彼女に国王として冷たくなることもない。
その変わらなさは、傍目から見ればバトエルデニに対して無関心としか見えない。これが周りの態度をさらに悪化させていることに、果たしてウラディミールは気づいているのか。
「それにしても、いつになったら子供が出来るんだ?」
バトエルデニは未だに膨らむことのない腹を撫でながら、うんざりと呟く。
この5年、ウラディミールと床を共にした数は、もはや覚えていない。彼の忙しさに左右されるが、1週間に1回は必ずしているはずなので、それでも出来ないとなるともはや身体的理由以外に考えられない。ウラディミールが種無しならば、それは王位を揺るがすほどの大問題である。故に周りはバトエルデニこそが子供が出来ない原因ではないかと考え、彼女を廃妃するべきだとウラディミールに進言しているが、ことごとく却下されている。
バトエルデニは子供が欲しいわけではないが、番ならば子を産むのが仕事だと思っているため、複雑な心境だ。
だから一度だけ、聞いてみたことがある。
「子を孕めない女を王妃に置いておくのは、よくないんじゃないか?お前には子供が必要だろう」
事後、「きっとこの行為も無駄になるに違いない」と弱気になって、ついこぼしてしまった言葉だった。しかし、それを聞いたウラディミールといえば、
「別に。王にするなら俺の子供でなくても構わないだろう」
なんて、やはり興味なさそうに返した。彼らしいと言えば彼らしいが、臣下が聞けば卒倒しかねない爆弾発言だ。それに実力主義のウラディミールなら、実際やりかねない。とはいえ、バトエルデニだっていつまでも子供を産めない女として冷遇され続けるのは嫌だ。
「妊娠しやすくする薬でも用意するか」
今までは自然に出来るのを待っていたが、そろそろ強硬手段に出ていかなければならないだろう。しかし、バトエルデニには自らの手足となってくれる信頼できる部下が存在しない。
「さて、どうしたものやら」
あれもこれも、バトエルデニには問題が山積みだ。正直何から手をつけたらいいかさっぱりわからない。だからこそ、5年もこの状況を放置していたとも言える。
コンコンッ
「ん?なんだ?」
バトエルデニが今後のことを考えていると、突然部屋の扉がノックされた。こんなに朝早くから部屋に誰かがやってくることは滅多にないため、バトエルデニは思わず首を傾げる。