2.回想だ
大雪が降った翌日の朝の雪原は、世界で一番静かな場所だと思う。
そう、少なくともこの雪原で生まれ育ち、この地で死ぬ定めであったバトエルデニとっては、この瞬間が一番静かであった。そこでは動物はおろか、鳥や虫、風に揺れる草花の音もなく、ともすれば自分の立てる小さな呼吸ですら異音のように響く。だからバトエルデニは息を殺し、自然の中に溶け込む。
「…………」
視線の先に、痩せた一頭の雄鹿がいた。冬は生き物の多くが冬眠に入るが、鹿は冬眠をしない。だからこそ冬の雪原においては、痩せた鹿でも貴重なタンパク源になる。
バトエルデニは弓を構え、木の上から慎重に狙いを定める。寒さに僅かに指先が揺れるが、それすらも計算に入れて慎重に、しかし躊躇い機会を逃してはいけない。
バサバサバサ…………
どこかで鳥が羽ばたいた。その音に耳をピンと震わせ、雄鹿が顔を上げる。
ーーーーーー今だ。
「ーーーーーー!」
バトエルデニはすかさず弓を射った。放たれた弓はまるで吸い込まれるように雄鹿の首へと狂いなく突き刺さり、その身体はドサリと力なく雪の中へ倒れ込んだ。この雪原の雪は重く固く、健康な生き物でも一度倒れ込むと起き上がるのは困難だ。痩せた手負いの鹿ならば、もう起き上がれまい。
しかし、バトエルデ二は倒れる鹿を確認しても、すぐには木から降りなかった。ここで喜び気を緩ませ木から降りてしまってはいけないことを、重々理解しているからだ。何故なら冬にはもう一匹、冬眠しない生き物がいる。
それは“狼”だ。
彼らとは平時であれば友好関係を築き共存しあっているが、冬の厳しさの前では生きるか死ぬか、喰うか喰われるかの弱肉強食の関係だ。鹿に近づいて油断したら最後、彼らに食い荒らされるのは自分になる。
バトエルデニは頭上に生えた尖った耳をよく澄ませ、自然の音を全身で感じる。
静寂。
そこに、凍てつくような風が雪を舞い上げるように撫でていく。
バトエルデニは、息をするだけで肺まで凍りつくような、この寒さが好きだった。
いや、この寒さだけではない。
この静寂も、鈍色の空も、厳しい大地も、獣も、ここに生きる人々の強さも、
その全てを心から愛していた。
だが、バトエルデニはもうすぐここを離れなければならなかった。
サクッ…………
「!」
背後から聞こえた足音に、バトエルデニは弾けるように身を翻し、すかさず背後に向けて弓を構えた。
「(足音からして二足歩行で大型……熊か、或いは敵襲か…………)」
そして瞬時に思考を回す。
熊であれば木に登って来る前に倒せる自信がある。人間であれば足音からして素人、弓矢持っている様子も魔法を使う気配もないので、まだこちらに武がある。
キリリ…………
しかし、振り返った先にいたのは、予想していたような毛むくじゃらの獣でも泥臭い兵隊でもなく、おおよそこの森に相応しくない綺麗な身なりをした金髪に緑の瞳をした男だった。
「…………」
男は矢じりを向けられているというのに動じること無く、木の下からジッとバトエルデニを見据えている。自然界において、狩人から決して目を逸らしてはいけないというのは、当然の掟だった。一瞬でも目をそらしたら最期、狩人にその生命を狩り取られてしまう。
他国の軟弱な貴族が着る派手な格好とは対称的なその野性的な目に、バトエルデニは言葉を交わすこともなく男を気に入った。
「(面白い男だ。このまま弓を打てば、こいつはどんな反応を見せるだろう?)」
ふとそんな好奇心が彼女の中に湧く。
「…………」
バトエルデニはその好奇心のまま矢先を彼に合わせ、ニヤリと笑った。
男は動じない。
ーーーヒュッ
バトエルデニは張り詰めた弦から指を離す。勢いよく放たれた矢は、正確に男の首元を狙っている。
それでも、男は動じない。
ーーーーーーバチン!
鋭い矢じりが男を貫くかと思われたその時、突然矢は何か見えない壁にぶつかったかのように弾かれ、地面に突き刺さった。
男は最後まで、バトエルデニから目を逸らさなかった。
「ふんっ、“矢避けの呪い”か」
矢避けの呪いとは、貴族ならば暗殺防止のために必ずかけている、防御魔法の一つだ。バトエルデニは男の服装から当然呪いをかけているだろうと踏んで、あえて弓を射ったわけだが、いくら当たらないと分かっていても矢を向けられれば避けたくなるのが防衛本能というものだ。
野性的でありながら、理性的で豪胆な男。
「こいつはとてつもない“強者”だ」と、バトエルデニは感嘆しながらようやく弓を下ろして、そのまま高い木から軽々飛び降りた。
「我はバトエルデニ。お前の名は?」
「……ウラディミール・アガフォノフ」
「“アガフォノフ”、か。ならば父の客人だな。非礼を許せ、殺す気はなかった」
「分かっている。お前はわざと首元からずらして肩口を狙った」
「ほぅ。やはり、お前は強い」
自分の狙いを正確に言い当てられ、バトエルデニは再び唸った。
“アガフォノフ”は、隣国であるアリョール王国の王族のファミリーネームだ。そして最近、アリョール王国は国王が代替わりしたと聞いている。ならば、目の前のまだ王子にしか見えない若い青年が“そう”なのだろう。前の王は勝てない戦が好きな無能だったが、現国王は周辺国と対等な会談による平和条約を結んで回っているらしい。ボルテ・チノ連合諸国にも交渉の申し出が来ていた。
バトエルデニは力こそが正義だと思っているが、“武”だけでなく“知”による力の強さも認めている。武力だけでは人をまとめ上げることも、それらを率いて戦に勝つことも出来ないことを、彼女はきちんと理解していた。
「護衛はどうした?」
「先に村に向かった」
「そうか。ならばもう父にはあったか?」
「いや、まだだ」
「では案内しよう。付いて来い」
バトエルデニはウラディミールにくるりと背を向け、彼を自宅へと案内する。その自分より小柄ながらも堂々として、且つ隙のない背中に、ウラディミールは黙ってついて行った。
ボルテ・チノ連合国は、複数の亜人部族…………その中でも特に獣人に属する部族が集まって生まれた国だ。
“亜人”とは元々、遠い昔に精霊と人間が交わって生まれた存在であり、まだ精霊などの神秘の存在が色濃く地に残っていた当時は神聖な存在として敬われていた。しかし、文明が進むに連れその力は搾取されるものとなり、個体数の少なかった亜人はあっという間に制圧され、人間以下の存在へと成り下がった。その力を利用するためには、神聖な存在であるより、家畜と同じ扱いをしていた方が都合が良かったのである。
より神の形に近い精霊の力を受け継いだエルフやドワーフと呼ばれる種族は、精霊の力により独自の領域を持ち人間の手から逃れることに成功したが、獣の形に近い精霊の力を受け継いだ者たちは人間の住む領域から逃れることが出来ず、長い間搾取され続けた。しかしつい50年ほど前、各部族が集結して戦争を起こして大陸の一部を占領したことにより、ようやく亜人は自分たちの国を手に入れるに至った。
ゾリグ・バトエルデニは、その亜人部族の中の“狼族”の族長・ゾリグの娘であった。
「長、アリョールの王を連れてきた」
「入れ」
狼族が暮らすのは、木でできたテントのような簡易な家だ。それは迫害され放浪のみであった時代の名残である。そのため入口の戸も頑丈さより持ち運び易さ重視の雨除け程度の素朴なもので、バトエルデニが無遠慮に開けると、「キィィィ!」と悲鳴のような音を立てた。
「よく来た」
ウラディミールを出迎えたのは、がっしりと筋肉のついた逞しい上半身に熊の毛皮を羽織った男だった。美しいバトエルデニと傷だらけの巨漢では似ても似つかないが、その大国の王を前にしてもへつらうことのない堂々とした姿と同じ白銀の髪と青い瞳が、なんとか2人の父娘関係を保証してくれていた。
「わざわざ大国の王が、こんな泥臭い所に足を運ぶとはな」
族長は言いながら、ちらりとウラディミールの足元を見やる。彼が履いている上等なブーツは、険しい山道により泥に塗れ、嘗ての美しさをすっかり失っていた。
「靴は汚れるものだろう」
しかし、ウラディミールはさして何でもないことのようにさらりと受け流す。それは王故に金に頓着がないからではなく、単に彼が服に“肌を隠し身を守るもの”以上の意味を見出していないからなだけである。そもそも今着ている服も、目立つうえに重く、行動の妨げになるため着てくるつもりがなかったのに、家臣に「示しがつかない!」と言われ渋々着て来たのだ。“山の中で目立ってはいけない”も、山の掟の一つである。
「フッ…………生まれたての雛のようにか弱かった子供が、あの愚王の下で随分立派な鷲に育ったものだ」
族長はその堂々とした姿にぽそりと懐かしさをなじませ、そばにあった杯に牛の血を注ぐと、それをウラディミールに差し出す。
2024.12.30改稿