戦場のカメムシ
初めて人を殺したのは一年前だった。スコープを覗いていると這い寄って来る敵がいたので、引き金を引いた。銃声に全身が響いた。硝煙の臭いがあった。スコープの中で男は顔を伏せたまま固まって、頭から血を流していた。殺したと思ったが、もしかしたら生きているかも知れなかった。僕は近付いて確認したくてたまらなかったけど、まだまだ敵はいるのでそれどころでは無かった。早く戦闘を終わらせる為に、僕は必死で次の敵を探した。風がやむのを待った。命中。ハズレ。命中。命中。装填。命中……暫くすると戦場から音が消えていった。今回の攻撃もよくある威力偵察で、本格的な攻撃ではなかったらしい。一息ついて空薬莢を集めていると、隊長の姿があった。伍長と何やら話している。
「狙撃の成績が優秀だとは聞いてましたが……」
「裏方なんぞさせずにもっと早く任せておけば良かったな」
隊長が近付いて来る。また殴られるかと身構えたが、隊長は歯をむき出しにして笑顔を見せた。初めて見る隊長の笑顔は妙に可愛らしかった。上の歯が一本欠けていた。
「何匹殺った?」
「分からないですが、多分5人です」
「上出来だ」
肩を叩かれた。何か手に掴まされた。銀紙に包まれたチョコレートだった。
「期待してるからな」
それから僕は塹壕掘りや見張りといった裏方の仕事を免除され、狙撃手を任されるようになった。風と動線を読んで敵を撃つのは楽しかったし、隊長は褒めてくれるし、チョコレートももらえるし、悪い気はしなかったけども、どうしても気になる事があった。僕はいくら敵を撃っても僕は全く人を殺した実感を得る事が出来なかった。敵の死んでいる状態と生きている状態の間に根本的な違いを見出す事ができなかった。人を殺している筈なのに全く実感がないというのは、僕には何より恐ろしい事に感じられた。隊長は僕が気を落としているのに気付いてか「お前が気にする事は何もない。連中は虫みたいなもんだから駆除してやればいいんだ」と肩を叩いてくれたけど、そういう問題でも無かった。僕は罪悪感に苦しんでいるのではなく、寧ろ罪悪感が全くない事に苦しんでいた。
生きている敵は動いて僕に向かってくる。死んでいる敵は血を流して動かなくなって倒れている。それだけの違いで、生きていても死んでいても大きな違いはない気がする。精々壊れていないオモチャと壊れたオモチャくらいの違いだろう。だとしたら、僕もまた生きていても死んでいても大きな違いはないのではないか。そもそも僕は生きているのだろうか、死んでいるのだろうか。ここは地獄で、僕はもう死んでしまっているのかも知れない。みんながみんな死んでいることに気付かずに戦い続けているのかも知れない。隊長も伍長も……補給部隊の人も、敵も味方も、誰も彼も死んでしまっているのかもしれない。そう考えると恐ろしくてならなかった。
塹壕の淵、銃の手入れをしていると羽音があった。カメムシが一匹銃身を伝っていた。僕はそれを優しく引っぺがし、地べたに叩きつけて足で踏みつけた。青臭い嫌なにおいが広がった。思わず息を吐いていた。僕が死んだらこんなもんじゃなんだろう。苦しみに呻きながら、血と糞尿を垂れ流しにして、もっと酷い臭いを出しながら死んでいく筈だ。……そうだ、僕がもっとちゃんと人を殺せば、実感を持てるのかもしれない。敵が生きている人間だって事に、自分が生きている人間だって事に確信が持てるのかも知れない。
僕は計画を練って、三日後の攻勢の時に実行に移した。なるべく致命傷にならないように敵を撃って、敵が倒れた場所を憶えこんだ。そして気の弱そうな新兵に代わって夜の監視に志願した。新兵をしごきたがる隊長は最初渋っていたけど「眠れなくて退屈なんです」と言ったら許可してくれた。新兵は泣き出しそうな程僕に感謝していた。「僕もあなたのような優秀な兵士になりたいです」と憧憬の眼差しを向けてきた。僕は彼が羨ましかった。彼は多分、人を殺したらちゃんと苦しんで、自分も敵も人間で生きている事も少しも疑わないような人間なのだろう。
その日の夜。僕は伍長たちが寝静まるまで待って、ナイフだけ持ってこっそり見張り台を抜け出した。敵を撃った地点まで匍匐前進していった。月明りで視界はそれ程悪く無かった。なだらかな丘を這い上って行く。頂上の辺りで見下ろす。しかし目を付けていた草陰を探ってみても、血の跡が残るだけで敵の姿は無かった。生き残って逃げ去ったのか、敵が死体を回収したのか。僕はめげずに次のポイントを目指した。雑木林のそばの岩陰。ここに狙撃手がいた筈だ。弾丸は手と肩のあたりに当たった筈なので、もし生きていても大した抵抗はできない筈だ。ナイフをぎゅっと握りしめる。別に殺される不安はなかった。それよりずっと恐ろしいのは、このまま生きているか死んでいるか分からないまま動かなくなるまで虫のように蠢かなければならない事だった。それだけはどうしても我慢ならなかった。僕はひたすらに這って行った。
岩陰には男が仰向けに倒れ込んでいた。月明かりをそのまま吸い込んだような青白い顔色で、迷彩の肩は黒く血に染まっていた。右手には指が無かった。その割に息は穏やかで落ち着いて見えるのでもう痛みが無いのだろう。首が少し動いたのでまだ生きてはいるらしい。光の無い薄目が僕の方を向いている。
「こんばんは」
「…………」
「生きてますか?」
「……ああ……だが……もうダメだ」
「そうでしょうね」
「敵か?」
「はい」
「……そうか」
「もしよかったら少し、話をしませんか?」
男は答えなかったが、僕は勝手に話す事にした。
「家族はいますか?」
「嫁と息子が……あと生まれたばかりの娘……」
「家族に会いたいですか?」
「……いや」
「死ぬのが怖くないですか?」
「別に」
「僕が憎くないですか?」
「いいや」
「あなたを撃ったのは僕です。それも、わざと苦しめて死ぬように急所を外して撃ったんです。悔しくないですか?」
「……もういいんだ……どうでも」
思っていたのと大分違った。僕を憎んで、生きる事に縋って、最後の瞬間まで必死で生きようとしてくれればよかったのに、これじゃあ結局生きていても死んでいても同じじゃないか。
「殺してあげましょうか?」
「どうでもいい」
「なら殺しますね」
「ああ」
僕は男が憎らしくなってきた。男は僕の声に答えているようで結局何も答えていない。何一つ噛み合っていない。この男は僕を馬鹿にしている。
「あなたは……まるで虫みたいですね」
「虫?」
「虫みたいです。カメムシみたいですね。あなたは。何の意味も無く蠢いてこうやって一人で死んでいくんだから、カメムシもいい所じゃないですか」
「ああ、カメムシか……」
「悔しくないんですか?」
男は音のない笑みを作っていた。
「いや……カメムシか……確かにカメムシだな……人間もカメムシも……大して違いはない。蠢くだけ蠢いて、そのうち死んで動かなくなる。時たまアホみたいに大量発生して、大量に死んでいく。そうだな……誰も彼も……限度ってもんを考えたりしないんだ……敵を殺して、土地を奪って……それでまた敵が増えて……殺されて奪われて……結局滅びるのが分かってるのに……自分がどこまでいけるか……試さなくちゃいられないんだな……蠢かずにはいられないんだ……皆……そうやって生きて来た……みんな……そういう風にしか生きられないんだ……人間もカメムシも一緒だ」
「だったら、あなたももっと蠢けばいいでしょう!」
「そうしたいのは山々なんだがな……」
「もう殺します」
「そうか……」
「最後に何か言いたいことは?」
男は何か言葉を探しているようだったが、自嘲するように鼻を鳴らして首を振るばかりだった。僕はボタンを引きちぎって迷彩をはだけさせ、白シャツの胸元へとナイフを突き上げ、体重をかけて落とした。男は目を大きく開け開いた。むせ返るように痙攣して血を拭きだした。白シャツが黒く染まって行く。ナイフを抜くと少しだけ痙攣したが、それっきり男は動かなくなった。僕は独りになった。無性に寂しくなって岩肌を探してみても、カメムシの姿はどこにもなかった。僕は独りだった。