婚約者に必要なスキルは”命乞い”
婚約式を挙げるのは、王都の一等地にあるノースリンクス神殿。
王都の一等地にある、白いレンガ造りの建物に黄金の鐘が備え付けられた尖塔。二連アーチの門をくぐれば、双子の天使像が真っ先に目に飛び込んでくる。
まさか、私みたいな田舎の貧乏貴族令嬢がこんなに立派なところで婚約式を挙げることになるなんて想像もしていなかった。
「アリーシャ・ドレイファス伯爵令嬢。ようこそお越しくださいました。このたびはご婚約おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
声をかけてきたのは、背の低い総白髪の神官様。その神聖な雰囲気は、まさに人生を神に捧げてきた神殿の長という印象だった。
ただし、どう見ても引退しているはずのご高齢である。
そういえば、ここに来てから若い神官は一人も見ていない。片田舎の忘れられた神殿よりも神官の姿が見えなくて、今日ここで本当に婚約式が行われるのかと疑ったくらいだ。
「これから、クレイド殿下のいらっしゃるお部屋へご案内いたします」
神官様の口から婚約者の名前が出てきて、私は思わず身構える。
私は、これから第二王子のクレイド殿下とこの神殿で誓いを立てて婚約者になる。
まだ一度もお目にかかったことのない王子様と────。
「とても素敵なドレスですね。よくお似合いです。お嬢様のために、職人が心を込めて作り上げたのでしょうなぁ」
神官様に褒められて、私は気まずさから苦笑いを浮かべる。
今日初めて袖を通した水色のドレスは、人生で初めて着るような豪華な衣装だった。
さらには大ぶりのダイヤモンドが輝くネックレス、揃いで作られたであろう髪飾りやイヤリング、ブレスレットといった装飾品、さすが王家が用意してくれたものである。
一つの傷もつけてはいけないという緊張感で、そわそわして落ち着かない。
「殿下の想いが伝わってくるようです。愛するお嬢様のために、さぞこだわりをもって作られたのだとわかります」
「……ありがたいことです」
王子様の婚約者が既製品を纏って婚約式に臨むなんて普通は思わない。
私たちの婚約は急遽決まったのでこだわりのドレスを作っている時間はなかったものの、これは素晴らしい既製品だと心の中で感心した。
私の体にとてもフィットしていて着心地は快適、繊細なレースで仕立てられた首元も袖口もまったくきつくないのは、さすが王家が用意してくれた衣装だと思う。
あまりにぴったり過ぎて「私ってそんなに標準サイズだったんだ」と驚いたくらいなので、オーダーメイドだと勘違いされるのもわかる。
「それでは、あちらへどうぞ」
世間話もそこそこに、殿下がお待ちだという部屋へ移動することに。
私はおじいちゃん神官様の後に続き、ドレスを傷付けないよう慎重に歩いていった。
「こちらです」
案内されてやって来たのは、木製の大きな扉の前。
この向こうに、婚約者のクレイド殿下がいらっしゃるらしい。
「いよいよね……」
ごくりと唾を飲み込み、緊張で破裂しそうな胸にそっと手をあて、深呼吸を繰り返す。
「大丈夫、きっと大丈夫」
私は何度も自分にそう言い聞かせた。
クレイド殿下は、私の住む辺境地域まで魔物の被害から守ってくれている人だ。私たちが恩恵を受けてきたことは事実で、心から感謝している。
どんな見た目だろうと、冷酷な性格だろうと、私が抱いているクレイド殿下への尊敬の念は変わらない。だから、私は大丈夫。
一つ気になるとすれば、それはクレイド殿下のお気持ちだ。
「殿下は私でいいと思ってくださるかしら……?」
いくら政治的な事情があったとして、こんな貧乏伯爵家の娘と婚約して本当にいいの?
財力なし、権威なし、しかも私は魔力もなければ容姿も平凡で、これといって人様に自慢できるようなものはない。
その上──、前の婚約者を向上心もやる気もないダメ人間にした『ダメ男製造機』でもある。
自分で言うのも何だけれど、私との結婚はクレイド殿下にあまりにメリットがない。
「ううん、でも私にも何かできることが……」
「あの、よろしいですか?」
「は、はい!」
ぶつぶつと独り言を呟いていた私に、神官様が尋ねた。
私はふと我に返り、慌てて顔を上げる。
「殿下のご婚約者様をお連れしました」
神官様がそう告げると、すぐに大きな扉が開く。
中には、エーデルさんがいた。彼は朝会ったときのように笑顔で「お待ちしておりました」と迎えてくれる。
「失礼いたします」
いよいよ殿下とお会いするのだと思うと、心臓がまた一層ドキドキと鳴り始めた。長いドレスの裾を踏んでしまわないよう、気をつけながら部屋の中へと入っていく。
「殿下、アリーシャ嬢をお連れしました」
「──っ!!もうそんな時間か!」
部屋の中央に、黒と紺を基調とした盛装を纏った長身の男性が立っていた。
驚いて振り返ったその人は、蒼い髪を顔の右側でゆるく結んでいて、水色の瞳が印象的な美しい顔立ちの青年だった。
そのお姿は、気品があって理知的な雰囲気で、どう見ても素敵な王子様だ。
少し驚いた様子だったのにそれも一瞬のことで、すぐに凛々しい表情に変わり、まっすぐこちらを見つめている。
この方がクレイド殿下……?噂と全然違う!
荒れた部屋に立つお姿も、王族の威厳を少しも失わない……って、なぜ部屋が荒れているの?
「…………」
「…………」
豪華な客室のような部屋は、アイボリーのクロスが傷だらけで、脚の折れた椅子が倒れている。絵画と花瓶も、床に落ちていた。
「おやまぁ、これはまた随分と散らかりましたなぁ」
神官様は、特に驚きもせずそう言った。
どうしてそんなに平然としているの?年の功?経験の差?
しかし、ここではっと気づく。
王子様の御前で、こんな風にぼんやりしていてはいけない。
私は慌ててカーテシーをする。
「はじめてお目にかかります。アリーシャ・ドレイファスと申します」
「…………」
何も言ってくれない。頭を下げている私には、クレイド殿下がどんな表情なのかもわからない。
この無言の時間がつらかった。「やはり縁談を辞退するべきだったのか、いやでもそれはできなかったし……」と心の中で自問自答をし始めた頃、クレイド殿下が静かに言葉を発した。
「顔を上げてくれ」
「はい」
言われた通りに顔を上げる私。
そして、恐れ多くも殿下と目を合わせた瞬間────。
「よくここまで無事で来られたものだな……!」
「っ!?」
ぎらぎらとした恐ろしい眼差しと、怨念でも篭っていそうな低い声。
全然大丈夫じゃなかった!
この眼光を見るに、殿下は私と婚約したくなかったんだとわかる。
今にも殺されるのでは、と恐怖で腰が抜けそうになった。
怖い。まだ死にたくない……!
頬がひくひくと引き攣り、私は涙を浮かべながら愛想笑いをするという奇妙な状態になってしまっている。
「す、すみません……すみません……」
消え切りそうな声で繰り返すも、殿下には届いていないみたい。彼は黙ったまま、私をずっと睨みつけていた。
婚約者との初対面でまずやるべきことが命乞いとは、どんな悲劇だろうか。
体が小刻みに震えるのを止めることはできなくて、クレイド殿下と見つめ合ったまま無情にも時間は過ぎていった。