婚約者は、強くて優しい魔法使い様
離宮に平穏が戻ったのは、それから十日ほど経ってからだった。
フェリシテはドレイファス伯爵領へ到着して、入れ替わりはばれずにやり過ごせたらしい。迎えに行った女性騎士らと共に再び王都へ戻ってきて、今は以前と同じように私の侍女として離宮にいる。
マレッタも変わらずメイドの仕事に励んでいて、私とクレイド様が想いを通わせたことを喜んでくれていた。
エーデルさんは、今日もクレイド様のために忙しく動き回っているが、戻ってきてから仕事が増えた。
「クレイド様、そろそろお時間です」
「もう少しだけ」
執務室にいるクレイド様は、私を抱きかかえながら椅子に座り、書類に目を通している。
今日はここにいられる時間が少なめで、「アリーシャを補給したい」というご要望でこんな状態になっていた。
「エーデルさん、どうして止めてくださらないんです?」
「いやぁ、仕事がはかどるみたいなんで」
笑顔でそう言われると、自分の椅子に座りたいと思っている私がわがままを言っているみたいだ。
とはいえ、本当に時間の限界が来ると、エーデルさんがクレイド様を引きはがすこともある。つまり、今はまだ限界じゃないということだろう。
「あ、そういえばドレイファス領から手紙が来ていました」
「手紙?父からですか?」
渡された一通の封筒を見ると、間違いなく父の字だった。手紙の内容は私の暮らしを尋ねるところから始まり、領地の近況報告だ。
街や農村部へ視察に向かい、領主として人々の話を直接聞いたり、管財人のエレファスから帳簿の見方を教わって赤字の原因や借金の返済計画を確認したり、父は初めて仕事に向き合っていることが書かれていた。
「お父様がちゃんと働いているなんて……!」
信じられない気持ちで思わず声が漏れる。
ドレイファス領に派遣された文官たちは、その数が増えて今は十五名にもなっている。赤字改善には数年かかる見込みだが、エーデルさんの優秀な弟さんも十五名のうちの一人として力を貸してくれているので、当初の見通しよりは順調らしい。
「ドレイファス領に転移魔法陣を作れば気軽に移動できるけれど」
クレイド様は、もう何度目かの提案をくれている。
でも私は「いいえ」と首を横に振った。
「これでいいんです。私が近くにいると、父はまた以前のように戻ってしまうでしょうから」
残念だけれど、私たち親子は離れていた方がいい。気軽に戻れるようになれば、また私もあれこれ手を出してしまいそうだし、父も怠ける可能性が出てくる。
現実を受け止めるまでに随分と時間がかかったが、私も、父も、相手に依存しないよう気を付けなければ……。
「それなら、すぐに返事を書く?」
クレイド様はそう言って私から手を離す。
「いえ、この後の王子妃教育が終わってからゆっくり書きます」
「アリーシャ、あまりがんばりすぎないようにね」
ご自分の方が数倍働いているのに、クレイド様が心配そうな瞳を向けてくる。
私はくすりと笑い、気を付けますと答えた。
王太子殿下の計らいで、私の王子妃教育はようやくスタートし、遅ればせながら立派な淑女を目指してがんばっている。
「私は『強くて優しい魔法使い様』の婚約者ですから。しっかりお支えできるようにならなければ」
ふふっと笑ってそう言うと、クレイド様はちょっと困ったように眉尻を下げる。
今、王都を含めて南東部地域では「第二王子様は庶民のことも助けてくださる、強くて優しい魔法使い様だった!」という称賛の声が飛び交っている。
噂の出どころは乗合馬車の御者や乗客で、私たちがクレイド様に助けられた一件が噂になって瞬く間に広がったのだ。
あのとき、クレイド様はご自身が第二王子だとはっきりと言わなかったのに……と疑問に思っていたのだが、エーデルさんから「王太子殿下がここぞとばかりに噂を広めたのだろう」と聞いて納得できた。
王太子殿下はこれからクレイド様を表舞台に引き上げたいとお考えのようで、今回の噂はその足掛かりとしてちょうどよかったのだろう。
「アリーシャがそばにいてくれれば名声なんていらない。権力より報酬より、アリーシャと一緒に過ごす時間が欲しい」
「クレイド様……」
ねだるような目でそう言われ、私はかぁっと赤くなる。
クレイド様は、恥ずかしがる私を見て嬉しそうに笑った。
するとエーデルさんが、思い出したかのように「あっ」と呟く。
「そういえば、もう今年からはクレイド様がドレイファス領に魔物を売りに行かなくてもいいんですね。その分の予定が空きましたので、お二人でおでかけなさってはいかがです?」
「え?」
ドレイファス領に魔物を売りに行く?
そんなことは今まで聞いておらず、私は目を丸くした。
「今年は、ってことはまさか毎年来てたんですか?どうして?」
「…………」
答えはない。
クレイド様は、気まずそうに目を逸らしていた。
毎年秋になると現れる、黒衣の冒険者様。もっと大きな街で売った方がお金になるのに、なぜかいつも魔物の素材を売ってくれていた人の存在を思い出す。
ドレイファス家は、その利益のおかげで冬を越すことができていたのだ。
「クレイド様」
私の知らないところで、ずっと支えてくれていたのかと胸がじんとなる。
でもクレイド様は、知られたくなかったという風に言い訳をした。
「いや、言い忘れていたというか、言わなくてもいいかと思っていただけで、その……」
クレイド様が陰ながら支えてくれていたという事実は、まだほかにもあるのかもしれない。
じっと見つめると、彼は観念したように息をついて肩を落とした。
「……アリーシャを助けたかったんだけれど、君は詐欺を警戒していて寄付は受け取ってくれなかっただろう?だからこういう方法しかなくて……。完璧な王子様なら、もっとスマートに助けられたはずなのに」
クレイド様は、縋るようにぎゅっと私を抱き締める。
完璧な王子様にこだわる彼にとっては不満でも、ずっと助けてくれていたんだという愛情が嬉しかった。
「ありがとうございます、クレイド様」
不器用でかわいい人。完璧じゃないかもしれないけれど、私にとっては世界でたった一人の愛しい王子様だ。
恥ずかしそうに目を伏せるクレイド様を見つめ、私は微笑む。
「さぁ、本当にもう時間がありません。参りましょう」
エーデルさんに声を掛けられ、私たちは立ち上がる。
私はかけてあった大きな上着を取り、これから出かけるクレイド様にそれを着せた。
「アリーシャ、いってくる」
振り返ったクレイド様は、まだ執務室の中なのにそう言った。廊下までお見送りするつもりだった私は、ちょっと不思議に思うものの笑顔で答える。
「はい、いってらっしゃ……」
最後まで言うより先に、顔を寄せたクレイド様と唇が触れ合う。
驚いて息を呑み、瞬きも忘れて硬直してしまった。
「では、またあとで」
幸せそうに微笑んだクレイド様は、執務室の扉を開けて出ていった。一人残された私は、両手で顔を覆いその場にしゃがみ込んで動けない。
せめて廊下までお見送りをしたかったのに、きっと私の顔は真っ赤になっていることだろう。今から追いかけるにしても、どんな顔でまた「いってらっしゃい」をやり直せばいいのかわからない。
お見送りを断念した私は、しばらくの間ふかふかの絨毯の上で初めてのキスを思い出しては動揺して過ごした。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。
本作の書籍化が決定し、書き下ろしと改稿に励んでおります。
また後日、詳細をお知らせいたします!




