反省しない父
それから二日後、お父様がドレイファス伯爵家へと戻ってきた。
私室には、父の淹れたミントティーの香りが広がっている。こんな高そうな茶葉を買うお金はないはずなのに……。
不思議に思いながらも、私はさっそくお父様に話を切り出した。
「──お父様。私は今日、とても大事なお話があるのです」
用意してあった分厚い帳簿をテーブルの上に広げ、私は今後の収支予測のページを開いてお父様に見せる。
今度こそきちんとわかってもらわなければいけない、そう意気込む私は無意識のうちに緊張していた。
「こちらにあるように、ドレイファス伯爵家の家計は大変に危機的状況です。慰謝料が入ってくるとは言え、このままだと一年後には破産します」
「そんなに悪いの?」
帳簿を手に取ってそれに目を通す父は、どこか他人事のように尋ねる。
自分の散財のせいで伯爵家が潰れかけていると、未だに認識がないらしい。
私は冷静に、この二日間で考えたことを伝えた。
「お父様、今度ばかりは遊んでいる余裕はありません。当主として、どうか役目を負ってください。私はこれまでできる限り代理を務めてきましたが、それはよくなかったと気づいたのです。ロータルもそうでしたが、お父様は私がいるとそれを理由にお仕事をなさらないでしょう?」
「え?そんなこと……」
ない、とはさすがに断言できなかったらしい。
父は困ったような笑みを浮かべていた。
「私も自分のこれからについて、よく考えてみたんです。一度婚約解消された私に、まともな縁談はこないでしょう。だから私は、自分一人でもきちんと生きていけるようになりたいと思いました」
跡継ぎになれない娘が、未婚のままこの家に居座ることはできない。
どんなに悪条件でも嫁ぐか、働きに出るか、それとも修道院へ入るか……?
選べるのはこの三つで、ならば私は働きに出たいと思った。
王都では、メイドなどの使用人の仕事以外にも、文官や秘書官など女性でも採用してくれる高給な仕事があると新聞で読んだ。
たくさんの女性が、その知識やセンスを生かして活躍しているらしい。
私は幸いにも隣国の言葉がわかる。翻訳の仕事はこれまでにもやってきた。
王都で働くには採用試験を突破しなくてはいけないが、私が勤めに出ればお父様は当主として働かざるを得なくなるし、私も仕送りができるし、これが一番いいような気がした。
「お父様は領地の仕事を、私は王都へ働きに出て仕送りをします」
どうかわかってください、とお父様の目を見て本気だということを訴えかける。
すると、お父様は露骨に困った顔をした。
「それはできない、アリーシャ」
「どうしてですか!?」
「フォード大臣から頼まれごとを引き受けてしまったから」
「フォード大臣とは……?内務大臣のフォード侯爵様ですか……?」
リジス・フォード大臣は、国境警備の任務や外交などを幅広く担うフォード侯爵家のご当主で、騎士団や各領地の行政を取りまとめる内務大臣を務めている人だ。
フォード大臣と父が親しいなんて、一度も聞いたことがない。一体どうして、と不思議がる私の反応に父は満足げだ。
「驚くだろう?実は私も知らなかったんだが、うちはフォード大臣の派閥の末端らしい」
「え?派閥?」
どういうこと?
自分が知らない派閥に入っているとか、そんなことがあるんだろうか?
「私の祖父の時代までは、派閥を同じくする者同士として懇意にしていたそうだ」
「それって五十年くらい前の話ですよね」
「あぁ、だが、今もドレイファス伯爵家はフォード派、ひいては王妃派の一員だと、大臣の持っていた名簿にも書かれていたから間違いない!」
まったく交流がなかったのに、なぜ今さらそんな話が出てくるのか。
ドレイファス伯爵家など、向こうが欲しがるとも思えない。本当に派閥の一員だったとしても、向こうからすればうちなんて取るに足らない家だろうに……。
今この部屋で爽やかな香りを立てている茶葉も、大臣からもらった物だという。
何だか怪しい……!怪しすぎる!
私は警戒心むき出して「その頼まれごと」とやらについて尋ねた。
「お父様、うちみたいな斜陽貧乏伯爵家に大臣が何の頼みを?」
「アリーシャを第二王子殿下の婚約者に、と」
「………………は?」
寝耳に水、とはこのことである。
あまりに驚いてしまって、私は息を呑んで固まった。
「大臣が『アリーシャにしか務まらない』と推薦してくれたんだ」
この国には二人の王子様がいる。
第一王子レイモンド様は、二十三歳で王妃様の子だ。さらさらの金髪にアメジスト色の瞳を持つ、とても見目麗しいお方だと絶賛されている。
人々を癒す光属性の魔法を使えることから、神殿に「神の御子」と認定されているらしい。隣国の王女様との婚約が決まっていて、来春には国を挙げての盛大な結婚式を挙げる。
一方で、父の口から名前が上がったのは、側妃様の子である第二王子クレイド様。
側妃様はすでに生家へ下がられていて、クレイド殿下が公の場に姿を現したという話は聞かない。
二十歳になった今も婚約者は決まらず、その理由は容姿が醜く性格も冷酷で無情だから……と噂されていた。
「知っての通り、クレイド殿下は二十歳にして魔法省の長官を務めている。火、水、土、風、闇などほぼすべての属性の魔法を操る、素晴らしい魔法使いだ。これまで数多くの魔物を倒し、王国各地を守ってくれているお方だ」
「それはそうですが……」
うちのように貧乏だと、魔物が増えると国の討伐隊を頼りにするしかなく、クレイド殿下の率いる魔法省の魔物討伐隊のおかげで被害を抑えられていた。
冷酷だとか、残忍だとか、はっきり言っていい噂は一つもないクレイド殿下だけれど、彼のおかげで救われた命がある。守られている領地がある。
私は、クレイド殿下の討伐隊に感謝していた。
だから、縁談話を聞いて真っ先に思ったのは「私じゃないでしょう?」だった。
でもお父様は、右手を胸に当てながら深く感銘を受けたかのように目を閉じる。
「とてもありがたい縁談だろう?大臣は婚約が成立した暁にはドレイファス伯爵家を支援するとも約束してくれたし、これで我が領の心配事などすべて解決できるはずだ。しかも、アリーシャにはその身一つで来てくれればいいとまで言ってくださって……」
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
意気揚々と語る父の話を、私は慌てて遮った。
「おかしいです、そのお話!」
「おかしくないよ。大臣本人と会談したんだ、詐欺ではないぞ?」
「だって、うちは王子様の妃になれるような家柄ではありません。貧乏ですし、誇れるような名誉もないし……」
どう考えても、分不相応だ。クレイド殿下に申し訳ない。
「王族の婚約者なら普通はもっと高位貴族のご令嬢が選ばれるはずですよね?たとえ家格が低くても、すごい魔法が使えるとか、見目麗しいとか、何か普通の人より優れた部分があるはずで……。何で私が婚約者なんですか?」
クレイド殿下は魔法省のトップで、王国一の魔法使いだ。
それなのに、私が選ばれるわけがないのだ。
「私は魔法が使えません。ご存じでしょう?」
「あぁ、そもそも測定していないからなぁ」
お父様は、まるで他人事みたいにあっけらかんと言う。
貴族子女は、一般的に十歳で神殿に行き、魔法属性の測定を行う。私の場合、測定費用がかかるから……と神殿にすら連れていってもらっていないのだ。
「とにかく、私を妃にするメリットが殿下にも大臣にもありません」
「大丈夫だ、アリーシャ。何もないのがドレイファス伯爵家のいいところなんだ」
何もなくていいわけがない。
目を細める私。
お父様がやけに自信満々なのが不思議だった。
「クレイド殿下に婚約者がいないのは、お近づきになりたいと思うご令嬢がいなかったというのもあるが、第一王子派と第二王子派の派閥問題が大きいらしい。しかし、第一王子様が立太子したことで、これからは双方の派閥が手を取り合っていこうとしているんだ。そのためにも、王妃様や大臣は、第一王子派の貴族家からクレイド殿下の婚約者を出したいとお考えなのだ」
「……それは、婚約者にクレイド殿下を監視させようということですか?」
突然出てきた不穏な話に、私は眉根を寄せた。
争い合ってきた二つの派閥が、いきなり仲良くできるわけがない。
敵陣営に婚約者を送り込むのは、友好ではなく監視や情報収集が目的なのでは?
私の頭の中に、嫌な想像が浮かぶ。
けれど、父は「違う」とすぐに否定した。
「派閥の中核である家柄であれば、そうなってしまうだろう。だからこそ、政治的に何の力もないドレイファスの出番なのだ!何の波風も立たせず、現在の勢力図を一切変えない、そんな『無』の価値を大臣に買われて今回の婚約が決まった」
「大臣公認の無価値な家……!そんな決め方、クレイド殿下に不敬です……!」
国を守ってくれているお方が、そんな理不尽な目に遭っていいわけがない。
相手が私だなんてクレイド殿下に申し訳ないと思った。
「いけません、こんな縁談は。派閥の一員であるならば、フォード大臣を説得してください……」
私は声を震わせながら訴えかける。
そんな私に、お父様はいつものようにへらりと笑って言った。
「アリーシャ、せっかくのお申し出を断るなんてできないよ。しかも、すでに支度金をもらってしまったんだ」
「支度金?」
お父様がまとまったお金を手にして、邸までそれを持って帰ってきたことはない。支度金という言葉を聞いた瞬間、嫌な予想が浮かんだ。
「まさかお父様はそれを?」
「王都での滞在費に使ったり、新しいビジネスへ投資したり、名もない音楽家に渡してほとんど使い切った」
たった数日でほとんど使い切っているとか、信じられない!
あまりに考えなしの行動に、私はぐったりとしてしまう。
「迎えの馬車も向こうが手配してくれるし、きっと大丈夫だ!」
「無茶言わないでください。お父様は私のことを何だと思ってるんですか!?」
今度こそ、きちんと当主の仕事をしてほしい。そう説得するつもりが、予想外の婚約話で何もかも吹き飛んでしまった。
情けなくて悔しくて、腹が立って、悲しかった。
「アリーシャ。私なりに、アリーシャを想ってこの縁談を受けたんだ」
「え……?」
「私のせいでおまえには苦労をかけた。反省したんだ。だからこそ、裕福な相手と結婚して、のんびり暮らさせてやりたいと思ったんだよ」
「……王子妃が暇だと思ってるんですか?」
王子様は裕福だろうけれど、王子妃はおそらく暇ではない。
「忙しくても、お金さえあれば人を雇えるさ。王子妃なら間違いなくお金はある。それに、有能な婿にすべてを任せて、私だってのんびり暮らしたい」
「さっき反省したって言ってませんでした?それなのになぜ『自分が働く!』とならないんですか!」
「私がより有能な人間がいたら、私が働く必要はないだろう?大丈夫、第二王子様は優秀だと聞いている。アリーシャが金に困ることはないし、領地の問題も万事解決だ!」
「まさか、クレイド殿下にうちの領地の面倒も見てもらおうとしてるんですか!?」
どうしてそんなに他人任せになれるんだと、私は呆気に取られた。
父は悪びれなく、きょとんとした顔で言う。
「金に困らない、悠々自適な暮らしは最高だ。王子妃になればきっと幸せになれるさ、私も、アリーシャも」
「…………」
ダメだ。価値観が違い過ぎる。
フェリシテと話して「父に変わってほしい」と思ったけれど、この父をどうやって変えられる?
父は、お金に困らない生活こそ幸せだと思っているのだから、今回の婚約も娘にとって良縁であり喜ばしいことで、私がいくら訴えかけてもわかってはもらえない。
愕然とする私を前に、父は大臣からもらったミントティーをごくりと飲む。貧乏なのに所作に余裕があり、この世の楽しんでいる雰囲気すらある。
ダメだ、この人は……。ダメ男の才能がありすぎる!
第二王子クレイド殿下との婚約。王妃様と大臣からのご指名。
どうあがいても断れない縁談だと悟り、力なく項垂れるしかなかった。