王妃様がお怒りです
クレイド様たちが王都を離れ、三日目のこと。
通信機を使った連絡は、昨日の夜から途絶えている。
これはアクシデントでも何でもなくて、山脈に眠る魔法石の影響だから連絡が途絶えるのは予定通りだとリナさんから教えられたものの、クレイド様の状況が気になって仕方がない。
「アリーシャ様、お菓子はいかがですか?」
マレッタが気を利かせて、いちじくのパイと温かい紅茶を運んできてくれた。私はそれを食べていても、クレイド様のことは大丈夫だろうかとずっと考えていた。
そこへ、一度は下がったマレッタが足早に近づいてくる。
「アリーシャ様」
その雰囲気の険しさに、クレイド様に何かあったのかと不安がよぎった。
私の顔色からそれを察したマレッタは、「いえ」と否定した後で用件を告げた。
「王妃様がこちらへお越しです」
「王妃様が?」
私とフェリシテは、急いで立ち上がる。
王妃様どころか、離宮に客人が来ることは一切なかったので動揺してしまった。しかも今はクレイド様が不在なのだ。
なぜわざわざここまでやって来たのかわからない。
「嫌な予感しかしませんけれど……?」
フェリシテの正直すぎる意見に、マレッタも納得の顔で「はい」と賛同する。
「お披露目の夜以降、一度もお会いできていないのよね」
「それは、アリーシャが王妃様のご機嫌伺いに行きたいって手紙を出しても、侍女に『そのような時間はございません』って冷たく断られたからじゃない」
あの日のことが気になって、王妃様と会ってお話してみようと思った私は、ご機嫌伺いと称して訪問を申し出た。けれど、そっけなく断られて取り付く島もないといった状況だった。
「どうしていきなり……?」
もしかして王子妃教育を再開するとか?でも、それならわざわざ王妃様がいらっしゃる必要はない。たとえば父や領地に何かあったとしても、王妃様から聞くことではないし……。
「とにかく行きましょう」
王妃様を長く待たせるわけにはいかず、私はマレッタに身支度を整えてもらい、一階にある応接室へと向かった。
しんと静まり返った応接室に、私と王妃様の二人きり。
別に叱られているわけでも、睨まれているわけでもない。それなのに、威圧感のようなものがあった。
「クレイドによくしてもらっているみたいね」
「はい、大事にしていただいております」
それもう過分なほどに。
ありがたいという本音は、隠すようなものではないと思った。
「あなたをクレイドの婚約者に、と推薦したのは私とフォード大臣だというのは聞いているわよね?」
「はい」
クレイド様がこれ以上の力を持たないよう、無力なドレイファス家の私が選ばれた。それを思い出したことで顔が強張るのを感じながら、私は改めてお礼を伝える。
「婚約者に推薦していただき、本当にありがとうございました」
きっかけはどうあれ、王妃様とフォード大臣の画策によって私はクレイド様に出会えたのだ。それについては感謝していた。
頭を下げる私を見て、王妃様は世間話のようにさらりと告げる。
「ここしばらくのあなたたちを見て、やっぱりこの婚約はなかったことにすべきと思ったの。もともと私たちが決めた話なんですもの、別に構わないわよね?」
「っ!?」
耳を疑うような言葉に、私は驚いて息を呑む。
王妃様は、そんな私を見て和やかな笑みを浮かべていた。
「どうしてですか……?私に至らぬところがあるとはわかっています。けれど、すでにお披露目を終えた今、婚約をなかったことにするとはどんな事情があるのですか?」
嫌だ、クレイド様と離れたくない。
その一心で王妃様に縋る。
「あなたがいるとクレイドが喜ぶじゃない」
「え……?」
王妃様は、悲痛な面持ちの私を弄ぶようにくすりと笑った。その目の奥には、憎しみや怒りが潜んでいるようにも見える。
「わからない?あなたは、私たちがクレイドへの嫌がらせとして選んだ婚約者なのよ?知識も教養もない、退屈な田舎娘だと思ったから選んであげたのよ」
私との婚約は、クレイド様への嫌がらせ。
わかってはいたものの、はっきりと口にされるとずきりと胸が痛む。
はぁ……と呆れてため息をついた王妃様は、蔑みの目で私を睨んだ。
「期待外れもいいところよ。クレイドはあなたに不満を抱かず、ちっとも嫌そうな顔をしない。披露目の舞踏会で仲睦まじい様子を見たら、とても気分が悪くなったわ。しかも、エデュユンの大使夫妻まであなたのことを褒めていて、これであの国がクレイドと関係性を深めたら、王太子の立場がなくなるじゃない」
「そんな」
王太子殿下のお立場がなくなるなんて、あり得ない。
だってクレイド様は、兄君のことを慕っている。だから、たとえ誰が味方になろうと兄弟で争うなんて思いもしないだろう。
「本当に忌々しい……!あの女が産んだ王子だけあって、どこまでも目障りだわ」
王妃様は、もうクレイド様への憎しみを隠そうとしない。側妃だったクレイド様のお母様を今も恨んでいるのだと伝わってきた。
妃同士の争いは、クレイド様には関係のないことだ。理不尽な恨みを向けられるクレイド様が可哀そうで、王妃様に対して怒りが込み上げる。
私の存在なんて、王妃様にとってはただの使い捨ての駒に過ぎない。それでも反論せずにはいられず、私は拳をぐっと握り締めて静かに訴えかけた。
「クレイド様は、決して王妃様や王太子殿下の敵にはなりません。それは、王太子殿下もわかっておられるはずです。第一──」
クレイド様は、とてもお心の優しい方だ。この国になくてはならない人だ。
懸命な訴えも、最後まで言い切ることもできずに一蹴された。
「おまえごときが、誰に意見しているのです?今日中にここを出て行きなさい。すでに新しい婚約者は用意したから、もうおまえは必要ありません」
無慈悲にそう言い渡され、私はショックのあまり呆然となる。
「クレイド様に、新しい婚約者が……?」
王妃様は立ち上がり、冷たい目でこちらを見下ろした。
「逆らえば、父親や領民がどうなるかわかっていますね。それに、クレイドも」
私の大切なものは、すべて王妃様の手の中にあった。
私は、どれも自分の手で守ることができない。どれほどクレイド様に大事にしてもらっても、私が何かを返してあげることはできないんだと思い知らされた。
「クレイド様……」
無力な自分が情けなくて、悲しくて、頬には自然に涙が流れる。
パタンと扉の閉まる音がして、王妃様が出て行ったことに気づいたけれど、その背を追いかけることもできず、椅子に座ったまま泣くことしかできなかった。




