二人きりでのおでかけ②
馬車が待ち合わせ場所に着くと、フェリシテを残して私だけが下りる。
私がクレイド殿下と一緒にいる間、フェリシテは侍女の仕事をお休みして、王都にあるお兄様のお邸へ行くことになっているのだ。
お忙しいお兄様の予定が空いていたのは、嬉しい偶然だった。
「アリーシャ、楽しんできてね!」
「ええ、ありがとう。行ってきます」
馬車は、フェリシテだけを乗せてゆっくりと動き出す。
私は手を振り、笑顔でそれを見送った。
すぐそばには護衛のエメランダさんが立っていて、ここが王都屈指の運河であることを教えてくれる。
「殿下はあちらの国立公園に……」
言いかけて、エメランダさんは何かに気づく。
彼女の視線の先には、いつもの魔法省の詰襟隊服ではなく、白いシャツにダークグレーのジャケットやベストといったシンプルな装いのクレイド殿下が歩いてくるのが見えた。
「私がアリーシャ様をお連れする予定だったんですが、待ちきれずにいらっしゃったようです」
「えっ、あの、いいんですか?王子様がお一人で歩いていますが……」
殿下は私と目が合うと、その美しいお顔を綻ばせる。
「アリーシャ、よく来てくれたね」
「で、殿下……?」
その出で立ちは、まさしく理想の王子様。ただし、目元には疲れが滲んでいる。
いつも抱えている大量のお仕事に、急遽入った軍議。私との時間を空けるために、殿下が大変な無理をなさったのは明白だった。
私は挨拶も忘れ、笑顔の殿下に尋ねる。
「あの、お体の具合はいかがですか?」
「え?もちろんとても幸せだよ?」
どういうこと?かみ合わない会話に首を傾げる私。
通訳してもらいたくて、エーデルさんは本当にいないのかと周囲に視線を向けて捜したが見つからない。
「さぁ、行こうか」
殿下は私の手を引き、軽快に歩いていく。
寝不足なのにでかけて大丈夫なのか、とはらはらしながら歩いていく。
殿下の説明によれば、これから向かうのはこの国屈指の大劇場。百年に一度の歌姫と評判の歌手が出演する、令嬢たちに人気の歌劇を観に行く予定だそうだ。
「えっ、よく五日で席が取れましたね……!」
驚く私に、殿下は微笑む。
王族として来場するとあちこちに手配が必要になるので、五日ではさすがに無理だ。だから身分は明かさず、魔法省の伝手を使って席を確保したという。
「エーデルは先に大劇場へ向かわせた。すぐに中へ入れるよう、整えてくれているはずだよ」
「そうだったんですね」
大劇場までは、さほど長く歩かずに到着できた。正面入り口には、着飾ったたくさんの人々が集まっている。その光景はとても華やかで、演目への期待度の高さが感じられた。
私は殿下にエスコートされ、また別の入り口から大劇場の中へと進み、そこで待っていたエーデルさんに二階の特別席へと案内された。
舞台がよく見える真正面の位置は、父が支援している役者が出演する舞台に招待されたときでも座ったことがない席だ。
大きなソファーに二人で並んで座っても余裕があり、しかも隣に誰がいるのかは見えない仕様になっていた。
「こんなに素敵な席で観られるんですね……!」
たくさんの観客がこれから始まる歌劇を楽しみにしていて、私もそれに影響されたのか気分が高揚する。
「よかった。アリーシャが気に入るか心配だったんだ」
「ありがとうございます。とても楽しみです」
次第に暗くなってくる場内に、ますますワクワクし始める。
私は前を向き、舞台上を見つめた。
開演の合図のブザーが鳴り、すぐに劇が始まる。ストーリーは、主人公の王女様が政略結婚で隣国の王子様に嫁ぎ、苦難を乗り越えて幸せになる話。冷たい態度の王子様の心がわからない、と主人公が嘆く歌は感動的で思わず涙ぐむ。
国のためならどんなことでも我慢する、という王女様は健気でとても愛らしい。歌い手の澄んだ声もとても素晴らしかった。
夢中で見入っていると、少しだけ肩に何か触れた気がした。
「?」
それからすぐに、ずしっと重みを感じる。
隣を見ると、クレイド殿下が眠ってしまって私にもたれかかっていた。大きな音楽が鳴り響いているのに、ぐっすりと眠っていてまったく起きる気配はない。
伝わってくる体温がやけに気になって、どきどきして緊張感に包まれる。
かなりお疲れだったのは会った瞬間にわかったから、殿下が眠ってしまうのは仕方がないけれど、私は石化の魔法でもかけられたかのように微動だにできなくなっていた。
舞台上と殿下を何度も交互に見て、私の視線は落ち着かない。
きっと、ご自分は興味がないのに私のためにこの席を取ってくれたんだろうな。私を楽しませようとして、忙しい中で色々と考えてくれたのかも……。
その優しさに胸が熱くなった。
殿下のことが気になって、もう半分くらい内容がわからなくなってしまったけれど、十分だと思えるくらいに嬉しかった。
歌手の方には申し訳ないが、この時間が殿下の睡眠時間になるならそれでいい。
結局、割れるような拍手が劇場内に溢れても殿下が目を覚ますことはなかった。
壁掛けの魔法道具のランプが暖かな光を灯し、一階にいた観客が帰り始めた頃になり、私は殿下にそっと声をかける。
「殿下、殿下」
「ん……?」
「あの、終わりましたよ」
トントンと腕を小さく叩き、起きてくださいと囁く。
「はっ?」
「おはようございます」
バッと頭を上げた殿下は、私のことを驚いた顔で見つめる。
それがかわいくて、私はふっと笑ってしまった。
「どうですか?少しお疲れは取れましたか?」
「まさか私は寝て……?」
座りながらよりも、横になった方がよかっただろう。でも、ここではさすがに横になるほどのスペースはない。
「この後はどうなさいますか?体調が優れないのであれば、離宮に戻ってお休みになられることをお薦めいたします」
時間的には、食事に行く予定を立ててくれていたのかもしれない。でも、疲れているときに無理はいけない。
私の声で一気に目が覚めた様子の殿下は、右手で顔の半分を覆って項垂れた。
「何てことを……!こんな、あり得ない」
「どうかお気になさらず」
殿下はものすごく悔やんでいた。確かに自分が殿下の立場だったら、寝てしまって申し訳ないと思うだろう。
でも、本当に気にしないで欲しかった。
だって、殿下を見ていて思ったのだ。私と出かけるために時間を空けてくれたとはいえ、自分のために婚約者が無理をする姿を見るのはつらいな……と。
「すまない、アリーシャ」
「いえ、私は大丈夫です。素敵な歌を聴かせてもらいましたから」
「すまない」
あまりの落ち込みように、私はだんだんどうしていいかわからなくなってきた。
「私みたいな男は魔物に食われるべきだ」
「いえ、そんなことは!」
「今日は必ず君に楽しんでもらおうと己の進退を賭けて来たのに、また完璧な婚約者になれなかった……!」
まるで、戦の指揮を執るかのような意気込みだ。殿下は何事にも全力で打ち込む人らしい。
私とのおでかけにそんなに本気で挑んでくれるなんて、まったく想像もしておらず驚いた。
これまでは父の趣味についていっても私はおまけで、元婚約者と出かけてもは自分の目的が済んだらさっさと帰ってしまうようなことばかりで……。
私のためにこんなにも必死になってくれる人がいるなんて、大切にされているんだと実感できてとても嬉しかった。
殿下はもうすでに十分に完璧な婚約者なのに、「また完璧な婚約者になれなかった」だなんて、誠実であるがゆえに高い目標のようなものがあるのかもしれない。
後悔で顔を顰める殿下に、私は告げる。
「殿下、私は完璧な婚約者が欲しいだなんて思いません」
「え……?」
目が合うと、彼は少し驚いた目をしていた。私がこんなことを言うなんて、想像もしていなかったといった様子だった。
今の殿下は、お仕事中の何でもできる王子様よりも親近感があった。
執務室では「何でもできて遠い存在なんだな」と感じてしまい、少し寂しかったから……。私自身の格差を感じて、不安だった。
婚約者との観劇中に寝てしまうのは、失敗と言えば失敗なんだろうけれど、私にとっては「殿下も人なんだな」って思えて実はちょっとホッとしていた。
私は、殿下の左手にそっと手を重ねる。
「私と出かけるために、いつも以上にお仕事をしてくださったんですよね?眠ってしまったのは仕方のないことです。これから先もずっと一緒ですから、また今度一緒に楽しめたらと思います」
婚約者としての一年も、またその先の結婚生活も、私たちは長い間共に過ごすことになる。殿下はお忙しい方だけれど、いつかまた一緒に来られることはあるだろう。
そう思い、大丈夫だと告げた。
「アリーシャ……」
殿下はまだ少し落ち込んだ雰囲気ではあったものの、重ねていた手がゆっくりと繋がれ、ぎゅっと強く握られる。
包み込まれればその手の温かさが心地よく、殿下との距離が近づいたような気がした。
気を取り直し、私は明るい声で問いかける。
「この後はどちらへ向かう予定なんですか?私は自分だけでなく、殿下にも楽しい時間を過ごしていただきたいです」
殿下は悲しげだった表情から一転、柔らかな笑みを浮かべた。
「これから食事へ行こう。レストランを予約してある」
「まぁ、楽しみです」
「君は野菜と魚を煮込んだ隣国の料理が好きだと聞いて、その店ごと買い取った」
「買い取った……?」
私の知っている”予約”とは随分と違う。ここでも殿下は行動力を発揮していた。
第一、私がその料理を好きだって誰かに話したことはあったかしら……?
マレッタと何気なく会話したことが、殿下に伝わったんだろうか。それとも、私が殿下に自分で話した?
ふと引っ掛かりを覚えて思い出そうとしていると、殿下が改めて私を誘ってくれた。
「一緒に行ってくれるか?」
この期に及んで確認をするなんて、どこまで律儀な方なんだろう。
私の困惑なんて些細なことのように思えてきて、思わず笑いながら返事をする。
「ふふっ、当たり前です。私の方が、お邪魔でなければ連れていってください」
「それこそ当たり前じゃないか」
婚約者に誠実で、実はかわいらしい人。クレイド殿下の印象がまた少し変わった。
目を合わせて笑い合い、二人揃って席を立つ。
殿下は私の手を引いたまま歩き、移動中もずっと私の手を握ったままだった。




