社畜は一日にしてならず
クレイド殿下の執務室にお邪魔して、そのお仕事ぶりを見ていること数時間。
何人かの部下の方が入れ替わり入室してきては、私を見てぎょっと目を見開き、遠慮がちにクレイド殿下に書類を差し出して無言で去っていくという状況が続いている。
ときおり、クレイド殿下が報告書の中身について部下の方に何か伝え、意見交換がなされることもあるが、専門用語が多すぎて私にはその詳細はわからない。
「アリーシャ、退屈ではないか?」
殿下は私を見て、心配そうな顔をなさる。
一生懸命に働いている殿下から、逆に心配されるなんて……。
「そんなことありません。理解にはほど遠いですが、こんなお仕事もあるのだと新鮮な気分です」
そう言ってにこりと笑えば、殿下は少しだけ笑みを浮かべ、手元にある分厚い報告書に視線を落とした。
艶やかな髪に透き通ったなめらかな肌、彫刻のように均整の取れた美しいお姿は見ていて飽きない。けれど、よくこれほどまでに集中力が続くなと感心するばかりだ。
本棚にはむずかしそうな本がたくさんあり、地図や歴史、民俗学、法律、魔法学などありとあらゆるジャンルの資料が揃っている。
ここでまた一人、魔法省の詰襟服を着た青年が訪ねてくる。今度の人は、私を見ても逃げなかった。ただ、目は合わせてくれない。
「クレイド様、隣国との交換留学生の候補が出揃いました。こちらがそのリストです」
彼はそう言って殿下に冊子を手渡した。
受け取った殿下は、さっそく中に目を通す。
「隣国エディユンとの交換留学か。この国とはまだあまり親交がなかったな」
「はい」
「なるべく領地の近い者を行かせた方がいいか?」
殿下の目線が、本棚にある地図へと向かう。それを見た私は、地図を取って差し上げようと腰を浮かした。
ところが、私が立ち上がるより前に本がスッと小さな音を立てて本棚から抜け、クレイド殿下の手元へと飛んでいく。
「あ……」
殿下は、本棚まで歩いて行くまでもなく地図をその手に取った。
その後も部下の方といくつか言葉を交わした殿下は、早々に結論を出し、交換留学生の件はつつがなく話が終わった。
また二人きりになった部屋で、殿下が私に話しかける。
「そろそろお茶にしようか?」
「はい!それでは私が……」
壁際に、ティーセットの載ったカートがある。
魔法道具のポットだから、中は適温のままなのだろう。
「いいよ、アリーシャはそのままで」
「でも」
「お茶を淹れるのは得意なんだ。茶葉を缶から出すときに、魔法で空気を操作して酸化させないようにすれば、より美味しさを保てると聞き、それ以来そうするようにしている」
「……空気を操作?」
「うん。これに関しては、メイドよりも私の方がうまいよ」
でしょうね!?
一般のメイドにそんなことはできないし、私にももちろん無理だ。お茶を淹れるこだわりレベルが違う。
「はい、どうぞ。アリーシャの好きなオレンジティー」
「あ、ありがとうございます」
私、殿下にオレンジティーが好きだって言ったかしら?
ふとそんなことを思う。ティーカップを口元に寄せると、それに近い爽やかな香りがする。
「気に入ってくれるかな……?」
殿下は楽しげな目で私の反応を見ていた。じっと見られるとやや緊張する。
来客でもなければ白湯で我慢してきた私に、お茶の味がわかるかは自信がない。けれど、香りだけでも殿下の淹れてくださったお茶が素晴らしいことはわかった。
「すごくおいしいです!」
口に含むと、香りの広がり方が全然違う。神殿で配られた茶葉を自分で淹れたものとは、似ているけれど質の良さが段違いだった。
こんなにおいしい紅茶は初めてだ。
殿下は私が喜ぶのを見て、少し安心したような目をする。
「よかった、アリーシャが気に入ってくれて」
この部屋にはメイドや掃除係の出入りは基本的になく、身の回りのことは殿下がご自身でなさっているらしい。
「私が殿下にして差し上げられることはありませんね……」
魔法が使えない私には魔法省の仕事は難しいし、報告書はすべて魔法で暗号化された文字で書かれていて、魔力も知識もない私には読むことさえできなかった。
私の出番がなさすぎた。
「婚約者なのに頼りにならず、すみません」
殿下は完璧な人だ。お仕事ぶりを見学すると、とても遠い存在に思えてくる。
どうしようもない格差を感じ落ち込む私に、殿下は言った。
「アリーシャがいてくれるだけで本当に十分だよ。むしろ、私が君に色々としてあげたいくらいだ」
「殿下が?私に……?」
とんでもない、と反射的に首を振る。
今だって与えられる側なのに、これ以上だなんて……!
「アリーシャ、君は何だって望んでいいんだ」
殿下は、婚約者として過剰なまでの親切をくれようとしていた。
でも、殿下の優しい眼差しにちょっと心が痛む。本来であれば、私なんかよりもっと素敵なご令嬢が殿下の支えになるべきなのに……。
昼食の時間を挟んでも、殿下はずっと書類仕事を精力的にこなしておられた。忙しい合間にもアリーシャ、アリーシャと話しかけてくださって、私への配慮も欠かさない。
こんなことでは、役に立つ婚約者になるのはほど遠い……。そう実感するだけで一日が終わってしまった。




