甘やかしたい王子様と働きたい婚約者
盛大なすれ違いが発覚した翌日のこと。
私はフェリシテと共に、クレイド殿下の執務室に向かっていた。
今日はドレス姿ではなく、動きやすさ重視でシンプルな菫色のワンピースを選び、足元もショートブーツにしたので移動しやすい。
廊下の窓からは、私がいつも過ごしている離宮が見えた。
離宮を出たのは初めてで、いつになく気分が高揚する。
案内してくれているエーデルさんは、私たちの歩幅に合わせてゆっくりめに歩いてくれていて、問題なくついていくことができた。
歩きながら、クレイド殿下の日常について説明を受ける。
「クレイド様は魔法省の長官ですので、魔物討伐などで遠征するほかはだいたいここにいます。遠征計画や予算計画作成、新しく開発された魔法や魔法道具の認可も最終的な判断はクレイド様がなさっているので、とてもお忙しいのです」
「マレッタから少しだけ聞いていましたが、本当に勤勉な方なのですね……」
私が感心してそう言うと、エーデルさんは苦笑いだった。
勤勉という言葉で片付けるには、まっすぐ過ぎるとでも言いたげだ。
「クレイド様は魔法開発においても第一人者で、その道の魔法使いたちからはとても崇拝されています。ここにも優秀な魔法使いはたくさん所属していて、彼らから意見を求められることも多いのです。魔法省においては、クレイド殿下に逆らうものはいませんし、アリーシャ嬢に危険が及ぶこともないはずです」
「……そうですか」
クレイド殿下があまりに私を守ろうとしてくださるから、てっきりどこもかしこも敵だらけなんだと思っていた。けれど、魔法省の人たちはクレイド様の味方だとわかるとホッとした。
私は自然に笑みが零れる。
「よかったです。殿下に安心できる場所があって」
エーデルさんは、優しい眼差しで頷いた。けれど、すぐにガラス張りの部屋に視線を向けて「また別の危機はありますけどね」と呟く。
ガラス張りの研究室の中では、ローブ姿の魔法使いたちが何やら実験中だった。
本や薬草、何かの鉱石などが雑多に積まれていて、あちこち散らかった状態で討論している姿が見える。
「皆さん、目の下に濃いクマがありますね」
「はい、ここでは『倒れなければそれでいい』という空気があります」
こんなに働き者ばかりの職場があるとは驚きだった。
もしやクレイド殿下も、そんなモットーで働いているの……?
適度に休ませた方がいいのでは、と私は顔を顰める。
「社畜がこんなにもいるなんて……!」
フェリシテは彼らの姿が自分の父や兄と重なるらしく、私以上に悲壮感を漂わせていた。
ここで、エーデルさんが私に今後のことを確認する。
「クレイド様はさきほど訓練を終えてお戻りになられました。ですが、本当にいいのですか?」
執務室まで案内はしてくれても、エーデルさんだって私とずっと一緒にはいられない。誰も付き添えないのにいいのか、と心配してくれているのが伝わってくる。
私は笑顔で「はい」と答えた。
「殿下のお役に立ちたいんです。ものすごくお忙しいと伺ったので、私にも何かお手伝いできることがあればと思いました。殿下のお体の具合も心配ですし……」
病気じゃないと本人もエーデルさんも言うけれど、突然ふらつくのはどう考えても体に不調を来しているとしか思えない。
「ありがとうございます。アリーシャ嬢に心配してもらえるなんて、クレイド様もお喜びになると思います」
エーデルさんの大げさな反応に、私はくすりと笑う。
殿下の執務室に到着すると、広い部屋の中には、天井まで届く本棚がずらりと壁際に置かれていて、テーブルにソファー、大きな書机があった。
黒い詰襟制服を着た職員が四人いて、二人ずつに分かれて立っている。
殿下は、訓練を終えたばかりなのにもう書机に向かって分厚い報告書に目を通していて、入室してきた私に気づいて報告書をばさっと置いた。
「アリーシャ?どうしたんだ?」
離宮にいるはずの私が現れたので、殿下はとても驚いている。
ただし、驚いたのは殿下だけではなかった。執務室の中にいた魔法省の職員たちが、ぎょっと目を見開いて慌てふためく。
「わぁっ!殿下の婚約者様だ!」
「逃げろ!目を合わせるな!」
「エーデル様、お連れになるなら事前に教えてくださいよ!まだ死にたくない!」
「わぁぁぁ!」
バタバタと逃げ出す彼らに、私は唖然となる。まるで恐ろしいものに遭遇した、みたいな反応だった。
「アリーシャ、一体何だと思われてるの?」
フェリシテが呆れた様子でそう言った。
「わからないわ……」
私は何が起きているのかわからず、開け放たれた扉を見て呆然としていた。
すると、エーデルさんがこほんと小さく咳ばらいをして答えた。
「殿下のせいです。すみません。アリーシャ嬢のことを見たら容赦なく消すと宣言なさったので、それで」
「なぜ!?」
見ただけで消されるって、それは魔法省の皆さんもあぁなりますね!?
どうしてそんなことを……と私が疑問に思ったところで、殿下が説明してくれた。
「アリーシャを見世物にしたくない。だから早めに警告しておいた」
あ、それ東の庭園でも聞きましたね……?
殿下はきりっとしたお顔で、堂々とそう言った。
「私は大丈夫なので、皆さんには気にしないでと言ってあげてください。それに、勝手に来たのは私ですので、多少見られたところで何とも思わないです」
私のせいで、皆さんの仕事に障りが出るのは申し訳ない。普段通りにしてください、と念を押す。
クレイド殿下は立ち上がり、私のそばまで来てそっと手を取って言った。
「それで?今日はどうして魔法省まで?」
美形の心配そうな顔は心臓に悪い。
昨日もそうだったけれど、殿下といると無性に胸が苦しくなったり、ドキドキと鼓動が速くなったりして忙しい。
「私にも殿下のお手伝いをさせてください」
「アリーシャが?えっと、何もしなくていいって言ったよね?」
「それは、そうなんですけれど……。王子妃教育も延期されていますし、ずっと第二離宮にいるよりは殿下に使っていただいた方が有意義な時間が過ごせるかと」
「使うだなんてそんな。あぁ、どうしようかな。君がいてくれるだけで十分なんだけれど」
クレイド殿下は少し困った顔をした。
でも、すぐに諦めたくはなかった。
「殿下、お願いします。まずはおそばでお仕事ぶりを見せていただけませんか?」
「そばで?」
「はい。何も手取足取り教えてくれだなんて言いません!何かできそうなことがないか、私が自分で見て探します。殿下にご迷惑をかけないようにがんばりますから!」
「アリーシャがそばにいてくれる……?アリーシャの視界に、私が入れる……?見守るのは私の役目なんだがこんなことがあっていいのか……!?」
殿下はまたふらりと後ろに倒れそうになりながらも、一歩足を引いてぐっと耐えた。そして、書机の近くにある長椅子を指さす。
「そこに座っていてほしい」
「わかりました!」
嬉々としてそちらへ向かうと、私が近づくより先に長椅子やテーブルがふわりと浮き、殿下の姿がよく見える角度へと向きが変わる。さらには、クローゼットの扉が勝手に開き、そこからアイボリーのショールが飛んできた。
どうやら、殿下が魔法で用意してくれたみたい。
「あ、ありがとうございます」
なんて便利なんだろう。
私は驚きながら、言われた通り長椅子に座った。
エーデルさんは殿下のそばにあったサイン済みの書類を抱えると、すぐに別の場所へ移動しようとする。
「それではアリーシャ嬢、殿下をよろしくお願いいたします。それから、フェリシテ嬢は私と一緒に来てください。来年の結婚式について、確認事項がございますので」
「わかりました」
フェリシテは、私に「がんばって」と目配せをして部屋を出る。
私も力強く頷き、殿下のお役に立ってみせると決意した。




