何もしなくていい、の意味は
東の庭園は謁見の間からほど近い場所にあり、建物の中だというのに限りなく自然に近い柔らかな光や風が再現されている。
すべて、クレイド殿下の管轄の魔法省が作った魔法道具のおかげらしい。
赤、白、オレンジ、ピンクといった色とりどりのダリヤが咲き誇り、私はクレイド殿下にエスコートされながら庭園の小路を歩いていった。
「色々と話したいことはあるが、第一に君に伝えたいことがある」
美しい花々に負けないくらいの素敵な王子様。蒼い髪がさらりと揺れ、絵画から出てきたようだと見惚れそうになる。
でも、一体何を言われるのかと少し怖くなり、私は両の手をお腹の前で組み合わせて下を向いた。
「婚約を受け入れてくれてありがとう」
「……え?」
びっくりして目を見開いた私は、顔を上げて殿下を見つめる。
殿下は唇を引き結び、緊張した様子だった。
どうして殿下が私にお礼を言うのかわからず、その目を見つめ返すことしかできなかった。
「何もしなくていいから、ただ一緒にいてほしい」
殿下は、意を決したようにそう言った。まるで恋人からの求婚みたいで、ドキドキして急に顔が熱くなった。
こんなことを言ってもらえて嬉しいはずなのに、理解できずに戸惑った。
「あの、私との婚約に納得なさってるんですか?」
「当然だ」
澄んだ空みたいに美しい瞳が、キラキラと輝いて見える。クレイド殿下は本当にこの婚約を受け入れてくれているんだと伝わってきて、ますます胸が高鳴った。
「どうして……。辺境の、ドレイファス伯爵家の娘ですよ?こんな私なのに」
何の力もない家の娘で、しかも貧乏で、貴族らしい上品な趣味もなく、可愛げもないと元婚約者に捨て台詞を吐かれた私と、婚約してよかったと思ってくれるの?
「本当にいいんですか?うちは殿下の後ろ盾になれるような家柄でもありませんし、私は何の実績も才能もなくて、魔法だって使えません」
こんなことは、とっくに殿下だって知っている。
それでも確認せずにはいられなかった。
殿下はふっと笑うと、そんなことはどうでもいいとでもいう風に答える。
「私は、君が婚約者になってくれてよかったと思っているんだ。だから、それ以上のことは望まない。王子妃の立場や責務なんてものは気にせず、何もしなくてもいいし、好きなことをしてくれて構わない」
「っ!?」
その言葉が愛の告白のように聞こえてしまって、私は思わず目を逸らす。
婚約者になってくれてよかっただなんて、それ以上のことは望まないなんて、これでは殿下が私のことを好きみたいだ。
殿下が私を好きだなんてありえないのに……!
冷静になりたくて、何度も深呼吸をしてから質問する。
「私との婚約に納得しているのなら、なぜ婚約式の日に私を見て『よくここまで無事で来られたものだな』とおっしゃったのですか……?」
最初に尋ねたのは、初めて会った瞬間のあの言葉。
殿下がどういう意図でおっしゃったのか、婚約に納得しているというのならあの言葉が出るわけがないと思った。
ところが、殿下は私がなぜそんなことを聞くのかわからないといった風な顔をした。
「なぜって……、そのままの意味だが?」
「そのまま、とは?」
「よく無事で来られた、と。よかったと伝えたつもりだった」
「ええっ!?」
あの睨みとすごんだ顔からは、「よくのこのこ来られたな」って意味だと思ったのに!
殿下からの労いが、まったく受け取れていなかったことに愕然とする。
私は前のめりになり、さらに質問する。
「婚約式を早めたのはなぜです?招待客もいなくてびっくりしました」
エーデルさんが言った「こちらの都合」とは一体何だったのか?それが知りたくて、私は殿下をじっと見つめる。
さきほど王太子殿下にも指摘されたばかりのクレイド殿下は、反省の色を滲ませながら言いにくそうに話し始めた。
「それは……、君を見世物にしたくなかったから。私は評判がよくないし、君まで嘲笑されてはと心配だったんだ。いくら婚約式とはいえ、よく知らない貴族たちにじろじろ見られて嫌な思いをさせたくもなかった」
「てっきり私を人に見られたくないと、こんな婚約者は恥ずかしいから隠そうとなさっていたのかと思っていました。よほど私のことを人に見られたくないんだなって……」
「それは違う!」
強く否定した殿下は、一歩距離を詰めて必死に説明する。
「婚約式のことも、離宮でずっと人払いをしていたのも、君を傷つける意図はまったくなかった。私の婚約者という立場は敵も多いから離宮にいた方が安全だし、なるべく人を寄せ付けないでいようと……!」
「監禁じゃなかったんですね」
「そんな誤解を与えていたのか!?」
クレイド殿下は息を呑み、見るからに狼狽していた。
右手で顔を覆い、悔やむ姿は恐ろしさの欠片もなく普通の青年に見える。猛省といった言葉が似あうくらい、苦悶の表情を浮かべていた殿下だったが、私のことを再び見つめたときにはしゅんとして落ち込んでいた。
「誤解させてすまなかった。エーデルからよく言われるんだ、顔が怖いと。脅しているようにしか見えないとも言われる。婚約式の日も、君に会えると思ったらどういう態度を取っていいかわからず、緊張して……。君を幸せにするのは、私の使命だと誓ったのに」
「使命!?」
とても大げさな言葉が飛び出し、驚いて声が裏返る。
義理堅いにもほどがある。
殿下は申し訳なさそうな顔で、私を閉じ込めていた理由を話し始めた。
「──私の母は、政治とは無縁の斜陽伯爵家の娘だった」
それはとても親近感の湧く家柄である。政治とは無縁の家から王家に嫁ぐのは、さぞ大変だっただろうなと想像した。
「国王陛下が王太子だった頃に舞踏会で見初められ、瞬く間に寵妃として扱われるようになったらしい。だが、側妃として生きていくには心も立場も弱すぎたんだ。母は私が五歳のときに、国王陛下に『生家に下がりたい』と申し出たんだ」
無限に続く嫌がらせに、継承権を持つ男児を産んでしまった重責、何もかもに耐えきれなかったクレイド殿下の母君は、お一人で生家に戻っていったと言う。
「私は第二王子だし、君は側妃じゃない。母とは色々と状況が違う。ただ、それでも君に負担をかけたくなくて、できるだけ人との接触を減らそうとした。監禁する意図はなかったが、結果的にそうなってしまっていたようだ」
私だって、普通なら王子様の婚約者ということで殺伐とした女の戦いに身を置くことになるのだろう。クレイド殿下は、私につらい思いをさせないようにと守ろうとしてくれたのだった。
「君が婚約者でいてくれるなら、本当に何もしなくていい。社交も王子妃教育だってやらなくていい。これまで君が働きづめだったことは見……、いや、エーデルから報告を受けていて、だから私の婚約者になったからには何もさせないでおこうと決めたんだ。とにかく、何もしなくていい、のんびり過ごしてほしいんだ」
クレイド殿下は、私を母君のようにしたくないと案じておられた。
聞けば聞くほど私のことを大切にしようと思ってくれていたのだとわかり、嬉しくて胸がいっぱいになる。
「殿下はこれまで、大変な思いをなさってきたのですね……」
幼少期に母君という盾を失くしても、継承権のある王子であるからには王城から出られない。娘の私ですら、生家に戻る母についていくことはできなかったのだ。
きっと殿下は、私が想像もできないくらいつらいことを経験してきたのだろう。
それでも、殿下は目を細めて優しく微笑んだ。
「兄は、私のことをいつも気にかけてくれている。王妃派だ何だと派閥はあるが、私は兄が自分を弟として見守ってきてくれたから現状に不満はない。だが君のこととなると話は別だ。誰にも傷つけさせたくない」
だから何もしなくていい、と殿下はさらに念を押す。
こんなに優しい方が婚約者だなんて、私にはもったいないと思った。同情や尊敬、親愛といった様々な感情が混ざり合い、気づけば私の眦には涙が滲んでいた。
クレイド殿下は、今度はきちんと伝わっただろうかと少し不安げな顔でこちらを見つめている。
「話してくださって、ありがとうございます。誤解していてすみませんでした」
涙を指で拭いながら、私は静かに頭を下げる。
殿下は少し慌てた様子で、私の肩に触れて「謝らないでくれ」と言う。
「私のためを思ってくださったのは嬉しいです。ずっと守ろうとしてくれていたことも……。でも、私にも殿下のために何かさせてください」
この方の味方になりたい。支えになれる存在になりたい。
これが義務感であったとしても、いつかクレイド殿下と自然に手を取り合えるような関係性になれたらという気持ちが湧いてくる。
「私は、殿下の婚約者です。守られてのんびりと暮らすよりも、殿下のために努力し、お心に寄り添える婚約者になりたいです」
「っ!」
突然、殿下はガクッと膝をつき、その場に蹲った。
右手で口元を押さえ、小刻みに震えている。
「殿下!?」
また発作が!?こんなときに!?
私は慌てて膝をつき、殿下の背に手を添える。
「苦しいのですか!?お医者様を……!」
「大丈夫、少し眩暈がしただけだ」
「貧血でしょうか?すぐに休みましょう、殿下」
辺りを見回し、エーデルさんや護衛の姿を探す。
どうして誰もいないの?人払いをするといっても、本当に誰もいないはずはないでしょう?
「ど、どうしましょう。私が走って人を呼びに……」
そう言って立ち上がった瞬間、殿下が私の手をパッと掴んだ。それとほぼ同時に、殿下もまっすぐ背筋を伸ばして立ち上がる。
「いや、いい。君のおかげで回復した」
そんなバカな。
「心配をかけてすまなかった。君は私を癒してくれた」
「癒し……?私は治癒魔法も何も使えませんよ?」
「でも、もうしばらくの間こうしていてほしい」
「?」
ぎゅうっと繋がれた手は、これまでの遠慮がちな仕草とは違う。大きな手にすっぽり包み込まれる感覚に、むずがゆい気持ちになってくる。
縋られるような必死さがあり、しかも殿下の目は熱に浮かされて心を奪われたようだった。
「アリーシャ、君が婚約者になってくれて本当に嬉しいんだ」
「は、はい」
「大事にしたい。私は君を守りたい。今度はちゃんと伝わってる?」
「伝わってます……!大丈夫です……!」
手を握られ、じっと見つめられながらそんなことを言われたら、心臓が今にも破裂しそうなくらいドキドキした。
落ち着かなきゃ……!殿下は「婚約者を大事にするタイプ」で、私に恋愛感情があるわけじゃない。真面目なだけ、そう、真面目すぎるだけ。
「アリーシャ?」
声が甘い!変わりすぎでしょう!?
誤解が解けたのはいいけれど、これはこれでドキドキしてつらい。
いつの間にか両手を握られていて、密着と言っていいくらいの距離に殿下がいる。
脅迫されてるのかと勘違いする低音ボイスと迫力ある眼光から、優しい声音と縋るような目を向けられるなんて、出会ったときとの差がありすぎる!
「まだ何か心配事が?気になってることがあるなら、何でも言ってほしい」
しっかりしなきゃ。殿下の優しさに応えられるような、立派な婚約者にならなきゃ。
「殿下。私も殿下のことを大事にします」
決意の言葉だった。ただし、殿下は私がそう言った瞬間に息を呑んで倒れ、あわや後頭部を強打する寸前で走ってきたエーデルさんに支えられた。
「クレイド様!お気を確かに!幸せはこれからですよ!?」
「殿下っ!やっぱり体調が……?今すぐお医者様に診てもらってください!」
私が悲鳴に近い声を上げると、殿下は安心させるかのようにかすかに笑みを見せ、「大丈夫だから」と言う。
うん、まったく大丈夫じゃなさそうだわ。
エーデルさんはかけつけた女性騎士に私を部屋まで送るよう命じ、クレイド殿下を連れて魔法省に戻ると言って転移魔法で消えた。