大きな誤解があるらしい
「おはよう、アリーシャ」
離宮で暮らし始めて早十日。
今日は、初めて殿下がはっきりと「おはよう」と言ってくれた。
食堂で会った殿下は緊張気味な表情で、真剣な表情で放った言葉が挨拶だったのには驚いたけれど、何だか温かい気持ちになった私は自然に笑顔になった。
「おはようございます。殿下」
そう返すと、殿下の纏っていた空気が少し柔らかくなった気がした。ちょっとだけ口角が上がったのは、気のせいじゃないと思う。
「今日もありがとうございます、殿下」
「……あぁ」
私がお礼を伝えると、クレイド殿下は目を逸らしつつも相槌を打ってくれた。
これまで私は、殿下が毎日私と食事をするのを「随分とマメに監視するんだな」と思っていた。でも、監視であればメイドに任せるとか魔法道具を使うとか、そっちの方がどう考えても効率的だ。
クレイド殿下は、私を気遣ってわざわざ様子を見に来てくれているのだ。
睨みつけるような鋭い眼光はときおり見せるものの、よく見ればそこにはまったく悪意も殺気もない。それに、人の『慣れ』とはすごいもので、今ではまったく怖いと思わなくなっている。
朝食を一通り食べ終わったタイミングで、私は勇気を出してクレイド殿下に話しかける。
「あの、殿下……書庫を移してくださり、ありがとうございました」
フェリシテの提案で読書をしようと決めた私は、マレッタに「書庫へ行きたい」と頼んだ。
すると、それを聞いた殿下がその日のうちに私の部屋を訪れて、「書庫を三つ隣の部屋に移した」と教えてくれたのだ。
……移したって何?と、最初は意味が理解できなかった。
マレッタによれば「三階の北側にあった書庫を、殿下が魔法で二階の一室へ移動させた」とのことだった。
私が三階へ行けばいいだけなのに、どうあっても私を二階から出したくないという強い意志が伝わってきた。
「おかげさまで、楽しく過ごせています」
書庫にあった本は歴史からファッション、菜園づくり、手芸、恋愛小説などありとあらゆるジャンルの物が揃っていて、すべて読むには一生分の時間がかかりそうだ。
王子妃教育が相変わらず延期されたままなので、私は毎日本を読んでいる。そして、本に書いてあった内容を参考に、ポプリを作ったり防虫剤を作ったり、街でよく売れる日用雑貨の中でも原価率の高い物は何なのか調べたり……、相変わらず優雅なイメージは縁遠いままだ。
また、中庭を散歩中、低木にぶどうに似た実がなっていたのを発見し、庭師に尋ねたところ「観賞用のぶどうだけれど食べられるし、種子からは油が採れる」と聞いたのでそれも書庫にあった本で手法を調べた。
洗浄・乾燥から圧搾まで一連の作業が簡単にできる魔法道具があるそうで、それもマレッタに持ってきてもらい、髪にいい美容オイルを作る実験をしたのは楽しかった。
「本はとても役に立ちます。中庭に落ちている花びらや実はどれも素晴らしくて、新しく生まれ変わらせることができるんだってわかって、それがとても楽しいんです」
「落ちて……?」
「はい、再利用です」
「何でも買っていいし、取り寄せていいのに?」
クレイド殿下は、なぜ私がそんなことをしているのか理解できないようだった。眉根を寄せて真剣に私の話を聞いてくれて、私を心配してくれているように見える。
「遠慮とかじゃありません。本当に、ここにある物で十分なんです。本当にありがとうございます」
「君が楽しいのならよかった」
たったこれだけの会話なのに、尋問みたいなやりとりじゃないことが嬉しい。
殿下も、私にちょっと慣れてきたのかも……?
私はほっと安堵して、残りの紅茶を口にした。
朝食が終わると、すぐに殿下は魔法省へと移動する。
「また来る」
「はい。お待ちしております」
私たちは、もう何度もこのやりとりをしている。
でも今朝は、扉の前で見送る際に一言だけ付け加えてみた。
「い、いってらっしゃいませ」
「っ!?」
私たちは同じ離宮に住んでいて一緒に暮らしているのだから、朝はいってらっしゃいというのが当たり前のはずだ。
何もおかしいことは言っていない。
ただ、殿下は目を見開いて息を呑み、しばらく動かなくなった。
長い長い沈黙の後、はっと我に返った殿下は目を逸らしてぼそっと呟く。
「い……くる!」
え、何?「いってくる」って、返してくれたの?
スタスタと足早に歩き始めた殿下は、あやうく壁に激突しそうになる直前で廊下を曲がり、階下へと下りていった。くるりと背を向けられたときに見えたのは、少し赤く染まったような耳。もしかして殿下は相当に不器用な人なのかも……?
「やっぱり悪い人じゃない」
監禁されてるけれど……。離宮の二階フロアと中庭しか、出してもらえないけれど……。
何か仕事はないかしら、私はそんなことを思いながら二階の私室へと戻っていった。
午後。
中庭に花の苗を植えようとしていた私の下へ、クレイド殿下がやってきた。
魔法省の黒の詰襟制服を着た殿下は、エーデルさんと共に入室してくる。
これから重要な任務に向かうといったような凛々しい面持ちで、まっすぐに私のところへ近づいてきた。
「アリーシャ、たっ」
「た?」
「ただいま……」
殿下が初めて「ただいま」って言った!しかも、聞き取れる声ではっきりと!
私は驚いて、でも嬉しくなって笑顔で返す。
「おかえりなさいませ、殿下」
「……ぐっ!!」
「殿下!?どうなさいました!?」
突然に胸を手で押さえ、前かがみになって苦しげな声を漏らすクレイド殿下に私は慌てて尋ねる。
「どうなさいました!?苦しいのですか!?」
原因は何?転移魔法の使い過ぎ?それとも持病とか!?
狼狽える私に、エーデルさんが明るい声で言った。
「あぁ、お気になさらず。殿下はときおりこうして発作を起こしますが、命に別状はありませんのでまったく問題ありません」
「問題ないんですか?」
苦しそうですけれど?呼吸もかなり乱れているんですが?
エーデルさんは「早く慣れてくださいね」と殿下を軽く窘め、そして私に用件を告げた。
「これから、本塔にございます謁見の間へ向かいます。国王陛下と王妃殿下、並びに王太子殿下との謁見が早まりました」
「これからですか?」
予定では、五日後だと聞いていた。
何かあったんだろうか?
「はい、国王陛下が少々……というかかなり奔放な方でして、アリーシャ様のご紹介をするはずだった日程に湖畔の別荘へ向かうことに決めてしまったためです。突然の予定変更で、アリーシャ様に大変なご迷惑をおかけすることになり申し訳ございません」
「いえ、そんな、私は何の予定もないですから」
大げさなくらいに謝られ、私は恐縮する。
国王陛下といえば、現在はご公務を第一王子様に任せ『病にて静養中』と聞いている。巷では、陛下は大病を患っていて医師団が懸命な治療を行っていると噂だった。
そんな中、湖畔の別荘へ向かうというのはご回復の兆しが見られたということだろうか。
エーデルさんは私の疑問を察したのか、にこりと笑顔で言った。
「噂というものは、誰かが意図的に流しているものが多いのですよ。国王陛下が理由もなく政務から離れるわけにはいきませんので」
つまり、病ではないと……。王太子殿下に任せて、自由奔放になさっているという状況に、うちのお父様のことを思い出した。
「アリーシャ」
いつの間にか元通りになっていたクレイド殿下が私を呼ぶ。
「君はただ私の隣にいてくれればそれでいい。何も話さなくていいし、何か言われても反応しなくていい」
殿下の瞳から、私のことを気遣ってくれているのだと伝わってくる。
お気持ちは嬉しいしありがたいけれど、何も言葉を発しない婚約者はもう置き物なのでは……と思った。
「急遽予定を変更なんてしたら、人払いが徹底できないじゃないか。アリーシャを見られてしまう……!くっ、父上がこちらへ来ればよかったんだ」
「そんな無茶な」
エーデルさんは呆れた目を殿下に向ける。
殿下は私のことを心底誰にも見せたくないんだな……と思うと、前よりも胸がじわじわ痛んだ。
毎日一緒に朝食を取っていても、会話ができるようになっても、殿下が私を恥だと思う気持ちに変化はないんだ。少しずつ仲良くなれていると思っていたのは私だけ、という現実に気分が落ち込んでしまった。