王子妃教育は延期だそうです
「元気か?」
「はい、元気です」
翌朝、どういうわけか殿下と一緒に朝食を取ることになっていた。
恐る恐る殿下のお顔を見れば、その目の下にはうっすらとクマがあり、もしや昨夜から今までずっと働いていたのかと疑いが生まれる。
どうして!?お忙しいのに、何でわざわざ一緒に食事をするの!?
私と食事をするこの時間を、休憩や仮眠にあてた方がいい。
相変わらず会話は弾まず、私が元気かどうかと日中何をしていたのかを尋ねられ、それは面談のような一問一答スタイルになってしまった。
質問が尽きれば、殿下は黙々と料理を食べ進めて、あっという間に席を立つ。
最初こそドキドキして不安だったけれど、気づけばこれが一週間も続いていた。
殿下は私の体調チェックを欠かさず、最後には毎回同じことを告げる。
「欲しい物は何でも言ってくれ。マレッタに伝えてくれればすぐに用意させるから」
「ありがとうございます。十分によくしていただいています」
聞かれるたびに、私は少し困ってしまう。
殿下の中では、婚約者に物を与えるのは義務なのだろうか?
魔法省へ向かう殿下を見送ると、私も自分の部屋へ戻る。
マレッタが衣装部屋へ向かった後は、一人きりにしてもらった。
この一週間、殿下と一緒に食事をしてわかったのは、彼は決して私に酷いことをするような人ではないということ。(不審だけれど)
私のことは『人に見せたくないくらいに恥ずかしい存在』だと思っているのに、『婚約者としての義務はまっとうしようとしている』ようだ。
……何だか、とても可哀そうな方に思えてきた。
不本意な婚約を押し付けられているのに、嫌だと断ることはできず、かといって私につらく当たることもできないなんて……!
きっと、根が真面目な人なんだ。
殿下の状況を想像してみると胸が痛んだ。
一方で、私はとても幸せな環境に置かれている。
「今のところ元気で生きてるし、お客様みたいにもてなされていて、衣食住も心配ない」
改めて現状を整理し、それを声に出してみる。
最初こそ命の危険を感じたものの、今ではすっかりそれもなくなった。
ミントグリーンのドレスの裾を軽くつまみバルコニーへ出ると、解放感たっぷりの青空が広がっている。
お部屋も素敵だけれど、私はこの床材が抜ける心配のないバルコニーがとても気に入っていた。
「アリーシャ?どこにいるの?」
部屋の中から、私を探すフェリシテの声が聞こえてくる。本塔へ私の手紙を出しに行ってくれて、今戻ってきたらしい。
「ここよ、おかえりなさい」
私はバルコニーから室内へと戻る。
青いワンピースを着たフェリシテは、私が預けた手紙とはまた別の封筒をその手に持っていた。振り返ったフェリシテは、私の姿を見つけると眉尻を下げて笑った。
「も~、ここ広すぎる……!離宮から本塔まで馬車で送ってもらったんだけれど、到着してからも建物の中が広すぎるのよ。手紙をすぐに受理してもらえてよかったわ。不備があってもう一度行くのは嫌だもの」
フェリシテの住んでいたお邸も、相当に広かった。けれど、やはり王城というのは敷地も広いし移動が大変らしい。
手紙と言っても、私が生家に「婚約式を行いました」と伝えるだけのものなので、中をじっくり検めるまでもなくスムーズに受理されたそうだ。
私はくすりと笑い、フェリシテを労う。
「ありがとう。今お茶を淹れるから座って?」
「アリーシャにそんなことさせられないわ。メイドに頼むから大丈夫」
あははと笑った彼女は、呼び鈴を鳴らしてメイドを呼ぶ。そして、慣れた様子でお茶を頼んだ。
私たちは向かい合って座り、用意してもらったお茶をいただく。
「フェリシテ、足は痛くない?横になってもいいのよ?」
侍女とはいえ、私の使いで本塔まで行ってもらったのだ。寛げるようにしてあげたかった。
でもフェリシテは「甘やかし癖が出てるわ」と言って笑って流す。
「あっ、それよりこれを見て?」
フェリシテはテーブルの上に置いていた封筒を取り、私に差し出す。この茶色い封筒は、さっきフェリシテがもらって帰ってきたものだった。
本塔から戻ってきたときに離宮の一階で手渡されたというそれには、鳥の羽根をモチーフにした蝋印が押してあった。
鳥の羽根にオリーブの葉が重なる紋章は、婚約が決まってから何度も目にしている。
「フォード大臣から?」
「ええ。使いの方がアリーシャにこれを渡してほしいって」
封筒の中には、便箋が一枚だけ入っていた。
──明日より開始予定だった王子妃教育は、無期限で延期といたします。アリーシャ・ドレイファス伯爵令嬢におきましては、ご自由にお過ごしください。
理由は書かれておらず、いつまで延期するのかといった期間についても一切書かれていない。
「いきなり延期だなんて、何か手違いでもあったのかな?」
せっかくクレイド殿下のためにがんばろうと意気込んでいたのに、いきなり延期だなんてがっかりしてしまう。
この一週間、刺繍をしたり編み物をしたり、テーブルマナーや歩き方の特訓をしたりしていた。本格的なレッスンが受けれられるのを待っていたのに、突然延期すると言われても困る。
肩を落とした私は、便箋をそっと封筒の中へ戻した。
ところが、フェリシテは私とは真逆の反応を見せる。
「王都へ来たばかりなんだから、少し延期するくらいがちょうどいいじゃない?アリーシャはこれまで働き詰めだったんだし、ゆっくりした方がいいわよ」
ゆっくりした方がいいと言われても、素直に喜ぶことはできなかった。今までの生活と違い過ぎて、無性に不安が募る。
「掃除も料理もしなくていいし、食材を買いにいくこともないし、内職の刺繍も翻訳の仕事も書類整理も何ひとつしなくていいってことでしょう?私、干からびてしまう……!」
悲壮感たっぷりにそう言った私を見て、フェリシテは困り顔になる。まさかここまでとは、と呆れた声で嘆かれた。
「だって、殿下の役に立つ婚約者になるには王子妃教育が必要でしょう?殿下は毎日『欲しい物は何でも用意する』と言ってくださるけれど、向こうからの頼み事は何もないし……」
「それは、クレイド殿下がダメ男じゃないからでは?」
婚約式のとき、殿下は「君は何もしなくていい」とおっしゃった。でも、本当に何もしないなんて考えられない。
王子妃教育が始まるまで、何かできることが一つでも欲しい。
頭を悩ませる私を見て、フェリシテは苦笑いでアドバイスをくれた。
「う~ん、教養のある婚約者というのも魅力よ。たとえばそうね、ピアノやフルート、バイオリンの腕を磨くのはどう?」
「習ったことがないの」
私は力なく首を横に振る。
お父様は芸術家を支援していたけれど、私には何のお金もかけてくれなかった。だから、私は楽器の演奏も絵も詩も、優雅な趣味は何も経験がない。
「う~ん、本を読むのは?」
「あ、それなら……。本と道具があれば、書き写した物を売れるかもしれないわね」
「いや、翻訳の仕事じゃなくて、アリーシャが楽しむための本よ」
「私が楽しむ?」
思わぬ言葉に、私は目を瞬かせる。これまでお金になるかどうかしか考えてこなかったから、自分が楽しむという発想はなかった。
「一度仕事やお金稼ぎから離れた方がいいわよ。王子妃って、こう……優雅なイメージが大事だから!」
確かに、お金稼ぎに必死になっている王子妃なんて聞いたことがない。
「そうね、まずは好きな本を見つけましょう。離宮に書庫はあったかしら?」
フェリシテはさっそくマレッタを呼び、書庫があるか確認する。
王子妃教育が延期になったのは残念だけれど、また別の学びがあるかもしれないと思えば前向きな気分になれた。
それでも、ただ本を読んで過ごすだけでいいのかという不安は拭えない。
仕事がなければ暇すぎて、募る焦りをどうにもできずにいた。