恋の沼 〜たとえこの身が破滅しようとも、あたしはあなたに恋焦がれる〜
この国では、身分差の恋は禁忌とされている。
貴族は皆生まれてすぐか幼少期には婚約してしまい、自分の結婚相手を選ぶことはできない。平民は平民同士で相手を見つけるのが普通で、少しでも上流階級の者に媚びを売ろうとすれば殺されるのが当たり前。
だからあたしは愚かな恋だけはしない。
そう決めていたはずだった。――そう、彼に出会うまでは。
「今日もハワード様、とっても素敵だったなぁ……」
平民ながらに魔法の才能が認められ、魔法学園に入学したあたしは今、気づくととある人を目で追ってしまっている。
ハワード・ペラゾーン様。金髪に碧眼の美少年で、到底あたしに釣り合うはずなんてない人物だ。
わかっている。ここに来た理由はあたしの魔法を高めるため。
だから勉強に打ち込むべきだ。毎日のようにこっそり彼のいる教室に通い、何かと都合をつけては会っているだなんて絶対許されることじゃないのだ。
だというのにこの胸は彼を見つめる度に喜びに跳ね、たまに視線が合ったりするだけでどうしようもなく舞い上がってしまう。これが恋だと認めたくはないけれど、そうとしか思えなかった。
ハワード様との出会いは入学式。
貴族子女がほとんどのこの学園で平民の生徒は珍しく、それを理由に一方的に罵倒されていた時にたまたま通りすがった少年に庇ってもらったのがきっかけだった。
強く凛々しく、笑顔の素敵な優しい人。
初めて彼の声を耳にした瞬間、あたしの全身は電撃に打たれたようになった。
その時はまだ電撃の理由は分からなかった。けれど名前も知らない彼にまた会いたいと思ってしまった。
そしてその一心でまだろくに詳しくない学園の中を歩き回って、迷子になって、その時にまた彼に助けられて、運命を感じた。
だから、どう見てもお貴族様な彼に対してこちらから名前を訊くという暴挙に出られたのだろう。
「あたしはべシーです。前といい今回といい、本当にありがとうございました! えっと、あなたは……」
「私か。私はハワード。この国の第一王子だよ」
「えっ……」
第一、王子?
何でもないことのようにすらりと彼の口から発された言葉に動揺せずにはいられなかった。
平民で、本来ならこんな学園に足を踏み入れることすらできなかったであろうあたしが第一王子と話しているだなんて、その上こんな風に迷惑をかけてしまっただなんて、信じられなくて、信じたくなくて。
あたしは呆然となるしかなかった。
***
この時に諦めていれば良かったのかも知れない。
でもその後もずっとずっとハワード様のことを想い続けていて……これが恋なのだと自覚した時にはもう、遅かった。
――好き。好き。大好き。
もっと彼を知りたい。彼と近づきたい。
第一王子なんていう人に自分が相応しいわけがないとわかっているのに、そんなことばかり考えてしまう。
そしてあたしはいつの間にか、ハワード様の教室を探し当てて、つまらない理由で押しかけ、彼の姿を拝むようになっていた。
こんなことをしているなんて、あたし、馬鹿みたい。
それでもあたしは毎日のように彼を求めた。求めずにはいられなかった。
今日も教室へ足を運ぶ。
「あの……これ。クッキー、たくさん買ったけど余ってしまったので、良かったら食べてください」
「ああ、ありがとう。後でいただくとするよ」
大して会話をするわけではない。というより、ハワード様を前にすると頭がぼぅっとなり、まともに話せなくなってしまうから。
踵を返し、すぐに自分の授業に戻った。しかしその後も授業は上の空で、少しだけ見られたハワード様の笑顔に悶絶してばかりだ。
……もう、自分でもどうしていいのかわからないくらい、ハワード様のことが好きだった。
***
お貴族様には必ず婚約者がいる。
ましてや第一王子、ひいては国王となるハワード様が婚約していないわけがなかった。
あたしはある日、ハワード様の婚約者だと名乗る公爵令嬢に呼び出され、これ以上彼にまとわりつくなと警告……いや、脅された。
「これを貴方が聞き入れてくださらないなら、貴方の身がどうなっても知りませんよ」と。つまり、暗殺を仄めかされたのである。
これくらいのこと、最初から予見していて当然のことだった。それができていず、お花畑としか言いようのない考えしか持っていなかった自分に反吐が出る。
相手は公爵家。後ろ盾のない平民の娘が敵うような相手では到底ないから従うのが賢明だ。
だけど、あたしはもうとっくの昔に恋の沼に嵌って抜け出せなくなってしまっていた。
どうしてもハワード様のことが諦められない。あの人の姿が見られないくらいなら死んだ方がマシとすら思えた。
だから――。
「好きです」
わざわざ手紙でハワード様を校舎裏に呼び出したあたしは、とうとう言ってしまった。
ハワード様は優しい。
優しいからこそ、あたしに現実を突きつけてくれる。その言葉でもって諦めさせてくれる。
そんな風に思っていた。思い込んでいた。
だけど彼から返って来たのは、困ったような笑みで。「私も自由に恋愛できたらどれほどいいだろうね」だなんて言うのだから、あたしは期待を裏切られた思いだった。
「……もしも恋ができるなら、私は婚約者より君を選んでしまうだろう。だが私の立場上それは許されない。あってはならないことなんだ」
「あの御令嬢より、あたしを? でもあたしなんて何も」
「べシーが毎日私を見つめ続けてくれていたことは知っている。私の方も実は、色々と君のことを観察させてもらっていた」
そのうちに君のことが可愛いと思うようになってしまってね。
そう言って照れ笑いするハワード様の言葉に、どう答えていいのかわからない。
まさか、この恋が両想いだっただなんて。
胸がドキドキする。でも、とあたしの理性が声を上げていた。
想い合っていたとしてもこれは身分差の恋なのだ。もしも駆け落ちでもしようものなら、国を挙げてハワード様の捜索が行われるだろう。そしてあたしは極刑は免れないに決まっている。
だからこそハワード様は『あってはならないこと』と言ったのだ。
……そう。この胸の恋心は、本来あってはならないものに違いない。
けれどそれを今更否定するなんて、両想いだったと知ってしまったのになかったことにしなければならないなんて、考えるだけでも辛くて涙が出てきた。
「今だけ特別だ。べシー、私の胸で泣くといい」
「……はい」
それからはもう泣いて泣いて泣きじゃくって、とことんみっともない姿を晒してしまったと思う。
決して好きな男の前で見せたい姿ではなかった。けれどそんな醜態をハワード様は受け入れてくれて、泣き止むのを待っていてくれたのだった。
この時、ハワード様の腕の中で優しく抱かれながらあたしは心の中で誓った。
――たとえこの身が破滅しようとも最後までこの人を想い続けよう、と。
***
障害があるからこそ恋は燃える。そんな言葉があると聞くが、まさにそれだったのだろう。
あたしは、ハワード様と一緒にいるところを目撃した生徒から口づてで噂が広まり、冷たい視線を向けられるようになった。
お前は何もできないドブネズミのくせになぜ王子殿下の寵愛を受けているのかと罵倒され、お前などあの方の傍にいることも許されないから身分を弁えろと虐げられた。
そんなあたしをハワード様はいつも慰めてくれるようになった。
しかしそのせいでどんどん婚約者との仲が悪くなり、周囲からの評判も日に日に悪くなっていく。愛人を作ることが許されないこの国では、他の女に入れ込んで婚約者を蔑ろにするなど最悪以外の何者でもない。
実際は優しいハワード様のことだから婚約者の令嬢のことも大事にしていたのだが、嫉妬に駆られる公爵令嬢はあたしをひたすらに憎んだ。
破滅への足音は一歩また一歩と近づいて来る。
ある日、このままでは廃嫡されることになるだろうとハワード様が言った。「じゃああたしと別れますか」と言うと、彼は躊躇いがちにだが首を振った。
王子としての務めと私情。今までせめぎ合い、公平を保っていたそれが大きく傾いだ瞬間だったのだろう。
今が好機だ。これを逃せば二度と言う機会がなくなる。そう思ったあたしは、ここぞとばかりにつけ込んだ。
「なら、公爵令嬢との婚約を破棄してください」
悪いのは全部あたし。
勝手に恋して、勝手に泣いて、最後の最後まで迷惑をかけ続けて。
だから、これでいい。これで良かったんだ。
婚約破棄は失敗した。最初から成功しないことはわかり切っていた。
こちら側は公爵令嬢が暗殺の脅しをかけてきたと主張したけれど、そんな証拠のない話に比べてあたしとハワード様の浮気の方が多数の者が知ることだったからどちらに責があるのは明らか。
あたしは第一王子をたぶらかした悪女として断罪され、王命により国外追放処分を受けた。
そして今、遥か遠くの名前も知らない国へ馬車で連れられている。王子に恋した愚かな女にはお似合いの末路だろう。
ハワード様に恋しているなら彼の幸せを考えるのが一番だ。あたしのせいで不幸になるくらいならこちらの方がいい。
彼があたしなんかではなく、本当に相応しい人と暮らしていくだろう。たとえ婚約者と気が合わなくとも彼ならきっとうまくやっていける。
だから大丈夫。これで正しかったんだと自分に言い聞かせ、あたしは無理矢理笑った。
「あたしはずっと、最期まで陰ながらハワード様のことを想い続けていますから」
***
それから十年が経った。
あたしはとある小さな町の娼婦として働いている。
十年間で一体何人の男と夜を共にしただろう。
しかしそれでもあたしは、あの時の誓いを守り続けている。体はすっかり汚れてしまったけれど、この恋心だけは汚されたくないから。
そうして過ごしていたあたしの元へ、普段は見かけない客がやって来た。
金髪に碧眼の青年だ。初めてのはずなのに、彼には見覚えがあった。あり過ぎた。
「……ハワード、様?」
「べシー、ずいぶんと遅くなってしまいすまない。迎えに来たよ」
そう言って優しく微笑むハワード様は、あの頃と何も変わっていなくて。
どうしてここにいるのかだとか、婚約者の令嬢はどうしたのだとか、そんな疑問は全て頭の中から吹き飛んだ。陰ながら想い続けているだなんて嘘だ。会いたかった。本当はずっとずっと会いたかったのだ。
「ハワード様、ハワード様、ハワード様、ハワード様ぁ……!」
あたしは彼の手を握り、夢中で名前を呼ぶ。
そしてたくさんたくさん涙をこぼしたのだった。
お読みいただきありがとうございました。