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10-8

 尾張の南部国境に今川家の城、鳴海城があった。

 城主は山口教継。以前は織田家の重臣として南部国境を固めていたが、七年前に今川家に寝返った。山口が三河への陸上ルートを封鎖したため、織田軍が三河に出る時は船を使わないといけなかった。

 森可成は南部国境の諸将に調略を仕掛けた。山口と有力武将の一人、戸部政直が呼びかけに応じて寝返った。

 しかし戸部の裏切りはすぐにばれた。彼は行動を起こす前に処刑された。山口は殺されないように必死に今川方として働いた。


 八月、山口は織田方の大高城、並びに沓掛城を寝返らせた。

 沓掛城は鳴海城の東七キロに位置する城である。鳴海と三河の連携を分断する目的で建っていた。

 大高城は鳴海城の南西二キロに位置する城である。地形的には知多半島の付け根にあった。城の北側には港があり、ここから伊勢湾に進出出来た。


 今川家は織田家の陸上ルートを塞いでいたが、織田家は今川家の海上ルートを塞いでいた。今川家が伊勢湾に出るには、南の三河湾から知多半島南端を巡って北上する遠回りのルートしかなかった。今川家からすれば、スエズ運河を手に入れたようなものだった。

 織田家の生命線は伊勢湾沿岸貿易だった。彼らは熱田、津島の湊を拠点にして莫大な富を得ていた。

 今川家は大高城から伊勢湾に自由に出入り出来るようになった。織田家の沿岸貿易は脅かされた。


 大高城から船で北に数キロ向かえば熱田に着いた。

 義元、信長は素早く手を打った。

 義元は甥で重臣の鵜殿長照を大高城主に送り込み、守備を固めた。鎧に使う革や鉄といった戦略物資も急いで買い集めた。

 信長は大高城周辺に二つの砦を築いて圧迫した。また山口への報復で、織田家に裏切りを約束した起請文を今川方に流した。

 義元は山口を処刑した。空いた鳴海城には今川最強の岡部元信が入った。


 包囲によって大高城の兵糧は減少した。

 十月、義元は救援部隊を派遣して砦二つを落とし、大高城に兵糧を運び込んだ。しかしこれはその場しのぎにしかならなかった。

 救援部隊が去った後、信長はすぐに砦二つを奪い返し、更に三つの砦を築いて包囲を強化した。大高城は飢えに苦しんだ。


 信長は勢いに乗って鳴海城周辺に三つの砦を築いて圧迫した。しかし岡部は相当の準備をして入城していた。兵糧不足も玉切れも起こらなかった。

 織田軍は岡部隊の出撃を恐れるようになった。鳴海城を攻めるための砦だったのに、いつの間にか岡部隊の行動を監視する砦になった。


 明けて永禄三年一月、織田軍は尾張東部で今川家の飛び地になっていた品野城に猛攻を仕掛けて落とした。これにより、尾張国内の反信長勢力は鳴海城とその周辺だけになった。

 北の美濃斎藤家は内政重視で軍事行動には消極的だった。織田軍は全戦力六千を鳴海周辺に集中出来るようになった。


 二月、松平元康は三河北部で織田家に味方した東広瀬城を落とした。これにより、三河国内の反義元勢力は一掃された。

 既に今川家は武田家、北条家とは同盟を結んでいた。今川軍は全戦力二万五千を鳴海周辺に集中出来るようになった。


 三月、大高城の飢えが本格化した。鵜殿隊は松や杉を乾燥させた粉で作った団子を食べたり、米を研いだ後の汁(意外と栄養がある)を飲んで持ちこたえた。

 どうにもならなくなった鵜殿長照は義元に援軍を要請した。

 義元は抜本的な対策を迫られた。

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