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三月、孤立無援となった三河西条城の吉良義安は今川家に降伏した。
吉良家と斯波家が和睦を話し合った上野原面会は天文二十四年四月ではなく、この弘治三年四月に行われたという説がある。ここでも両家の名門のプライドが正面からぶつかり合って、和睦交渉は不調に終わった。
四月、義安は知多の水野信元経由で尾張に亡命した。和睦が失敗した事で名門のプライドが傷付いたのか、「格下」の義元の下で生きる事に耐えられなかったのか、ともかく義安は三河を離れた。
信長は清州城の城外まで出て義安を出迎えた。
吉良家の家臣の列がやってきた。数は数十人。全員烏帽子を被って公家風の恰好をしていた。行列の中央に義安を乗せた牛車があった。
信長と側近は正装して道脇に並び、頭を下げた。行列は彼らの前を通り過ぎていった。
牛車が信長の前で止まった。義安はスダレを開けて信長に挨拶した。
「織上殿。よしなに」
スダレが閉じた。牛車はまた動き出した。
信長達は頭を下げ続けた。
信長の右隣に森可成が立っていた。可成は尋ねた。
「何で受け入れたんです?」
「だって困ってるんだろ?」
「それにしてもこの待遇は少しやり過ぎでは」
信長の左隣に丹羽長秀が立っていた。長秀は答えた。
「すねると何をしでかすか分からない男です。頭を下げて喜ぶなら、幾らでも下げればいいじゃないですか。タダだし」
信長は補足した。
「武衛様からも是非にと頼まれたからな。庇護する事で格上だと示したいんだろう」
信長の名目上の主は尾張守護の斯波武衛義銀だった。彼は和睦が失敗した事で信長を逆恨みしていた。
丹羽長秀の左隣に佐久間信盛が立っていた。信長は信盛に指示した。
「しかし偽装投降の可能性もある。しばらくは警戒を厳重にしろ」
信盛は頷いた。
義安は清州城内に大きな屋敷を与えられた。城内には斯波義銀が住む守護館もあった。
義安は義元だけでなく、援軍を送らず落城の辱めを与えた信長も許していなかった。
義安は引っ越しの挨拶で守護館に参上した。二人は私室で長い間密談を交わした。
二日後の朝、斯波家と吉良家の家臣は時間差で城を出た。
信盛の手の者が二人を尾行した。
二人は城下町の宿屋で商人の恰好に着替えた。それから人目を避けて寺の携帯で密会した。
二人は数日おきに密会した。場所は毎回変わった。河原、宿屋、料亭、船上……
その内に石橋家の家臣も密会に加わった。伊勢長島の服部家の家臣もやってきた。
信盛は全て調べ上げて信長に報告した。信長は更なる追加調査を命じた。
信盛は斯波家、吉良家、石橋家の重臣を寝返らせた。
強欲な斯波家の重臣には家が建つほどの金を送った。
茶道好きの吉良家の重臣には中国の珍しい茶器を送った。
男性好きの石橋家の重臣には一目で心を奪われる美少年を送り込んだ。
斯波家の重臣は四家が裏で進めている陰謀について証言してくれた。
吉良家の重臣は証拠として主の書斎から起請文を盗んできた。
石橋家の重臣は今川家の密使の情報を提供した。
清州城守護館の北に三階建ての櫓があった。中は剣道場のような板敷の広間になっていた。
信長は櫓の二階広間を政務の間にしていた。
織田家の首脳陣は二階広間に集まった。
信長は正面奥に、諸将は部屋の左右に座った。信盛は信長の対面に座った。
信盛は最終報告を上げた。
「斯波家、吉良家、石橋家、服部家は今川家と結び、海上から今川兵を引き込んで織田家を倒そうとしています。証拠も証言も揃っています」
首脳陣はざわついた。信盛は信長に報告書を提出した。
広間には大叔父で一族のまとめ役の織田秀敏もいた。彼は遠回しに決断を迫った。
「厳しい処分が必要だろう」
信長は報告書を読みながら答えた。
「国内にはまだ敵が残っています。ここで主君を殺して俺を倒す武器(大義)を与えたくありません。また服部の後ろには本願寺がいます。下手に手を出せば十万の兵が攻めてくるでしょう。
三人は追放。服部はお咎めなし。この辺りが妥当かと」
信長は斯波義銀、吉良義安、石橋義忠の三人を尾張から追放した。
斯波家、石橋家は滅んだ。尾張国内から信長を非難する声はほとんど上がらなかった。
義銀達は諦めて京都に移ったが、義安はなおも信長を殺すために今川家に亡命した。さすがに義元も彼を逮捕して寺に閉じ込めた。




