1-8
石高は米の生産量だけを指す言葉ではない。
商工業、漁業、林業といった商売で得た金銭を米換算に直した分も石高に加算される。土地の米の生産量が五万石で、商業地域で得られる金銭が五万石とすると、その土地は都合十万石として評価される。
尾張六十万石の内、実際の米生産量は二十万石程度だったと推測される。残り四十万は津島、熱田といった商業都市が稼ぎ出していた。
津島は濃尾平野一の商業都市である。木曽三川の河口に位置する利点を駆使して伊勢湾貿易で栄えていた。
熱田は東海道最大の宿場町である。熱田神宮の門前町として巨大な税収を上げていた。
信秀の父、織田信定は強引な手段で津島を手に入れた。彼は街を焼き、商人達を脅迫して家臣団に取り込み、近辺に城を築いて津島を支配下に置いた。信秀の代には熱田も抑えた。
一五五九年、中国五か国を治める毛利元就は困窮する朝廷に二千貫を寄付した。
一五四三年、織田信秀は困窮する朝廷に四千貫を寄付した。この時、信秀は下尾張の一奉行に過ぎなかった。信秀はこの他にも伊勢神宮や建仁寺に一千貫級の大口寄付を行っている。
二大都市の生み出す莫大な富が織田家の力の源だった。
津島は二階建て瓦葺きの家が建つ都会だった。船に乗って津島を見ると、土手越しに黒い瓦屋根が並ぶ様が見えたという。この時期は板葺きの平屋が主流だった。
街の主導権は津島十五党と呼ばれる商人グループが握っていた。グループのリーダー格は大橋家である。信秀は当主の大橋重長と自分の妹を結婚させた。大橋側も一族の姫を信秀の継室に送り込んだ。この継室が織田信長の生母ともされる。
織田信長と側近グループは大橋家の屋敷に滞在していた。茶菓子としてパンデロー(カステラのルーツになった半熟スポンジケーキ)が出された。
甲高い声でよく笑う男だったと伝えられる。
何をさせても早い男だった。すぐ食べるし、すぐ寝た。歩くのも早かった。
決断も早かった。敵より何倍も早く動き出す事で、間違った決断でも強引に正解に出来た。
側近グループは全員若く、暴力的で荒っぽかった。
家臣の一人が加納口の戦いに参加していた。彼は戦闘の経緯を一行に話した。
別の家臣は畳の上に地図を開いて、敵味方を示す複数の駒を置いた。そして話の通りに駒を動かした。
信長は真剣に話に聞き入った。時折天井を見上げて、頭の中で考えを巡らせたりもした。悲惨な話を聞く時は悲しい表情を浮かべた。失敗談は明るく笑い飛ばした。
話を聞いた後は全員で検討会を開いた。この時はどうすれば正解だったのか。同じ失敗を繰り返さないためには何が必要か。メンバーは活発に議論を交わした。
会議には進行が必要だ。自然と信長が進行役に収まった。
意見は身分の低い人間から聞いた。名家出身の人間から聞くと、他の発言者は彼に忖度して、同じような意見しか言わなくなる危険があった。自分の意見は当然最後に述べた。
家臣同士の議論がヒートアップして険悪な雰囲気が漂い始めると、「分かった。じゃあ相撲で決着を付けろ」と唐突に命じた。その一言で場は一瞬で明るくなった。
言い争っていた家臣は庭に降りて相撲を取った。他の家臣は笑いながら応援した。信長も甲高い声で楽しそうに笑った。勝った家臣には褒美に饅頭を与えた。
信長は荒っぽい側近グループを猛獣使いのように完璧にコントロールしていた。
大変な戦闘だったが、希望はあった。どんなに土地を奪われ、兵を損なおうとも、津島、熱田を握っている限り幾らでも挽回出来た。そう思わせるだけの頼もしい雰囲気を信長は持っていた。
信秀と利政の決定的な違いが一つある。信秀は息子の才能を全面的に信頼していた。
(続く)