9-1
織田信長は稲生の戦いで弟織田信勝を破った。信勝は降伏した。尾張の南半分は信長領になった。
信長は次の狙いを岩倉城の織田信安に定めた。信安は尾張上守護代として尾張の北半分を治めていた。
岩倉城は尾張北部の中心にあった。
岩倉城の南西に信長の本拠地、清州城があった。
北西に重臣の山内盛豊が治める黒田城があった。黒田城は尾張と美濃を隔てる木曽川沿いにあって、城沿いには大きな街道も走っていた。ここを抑えれば北の美濃斎藤家は尾張に南下出来なくなった。
北東に独立城主の織田信清が治める犬山城があった。岩倉城とは領土問題を抱えており、何度か戦っていた。
南東に織田方の上条城があった。城は庄内川(南の信長領と北の信安領を隔てる川)の北岸沿いに位置していた。南の対岸には何の城もないので、上条城を取られると一気に入り込まれてしまう危険があった。
弘治三年二月、甲斐の武田晴信は北信濃に出兵した。いわゆる「第三次川中島の戦い」である。
駿河の今川義元は和睦調停を行ったが不調に終わった。
今川家は三河各地の反乱軍を根気強く鎮圧して回った。三河の反乱は一時収拾が付かない状態だったが、義元の粘り強い戦いでようやく収束の目途が立ってきた。
三月、織田信安は岩倉城と清州城の中間地点にある正眼寺という寺に改修を施して、拠点にしようとした。
寺は北と西を湿地帯に囲まれていた。東と南には竹藪が胸の高さまで生い茂っていた。
信長は清州の町人二千人を動員して、東と南の藪を刈り取らせた。先に藪を切ってしまえば、寺を要塞化されても攻略戦が簡単になった。
作業には丹羽長秀隊八十人が護衛に付いた。
岩倉城から三千の部隊が襲撃してきた。長秀は町人を後方に回して竹槍を持たせた。護衛隊には弓鉄砲を持たせて前線に立たせた。
遠目から見れば二千の兵に見えた。
護衛隊は鉄砲を打ちかけた。敵三千は本格衝突を避けて撤退した。




