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秀敏隊は一旦攻撃を受けてから、信長隊の増援を待って押し返す作戦を立てた。
秀敏隊三百と林隊七百は盾を並べて街道上で打ち合った。
滝川一益、丹羽長秀、池田恒興が前線の弓鉄砲隊を率いていた。
弓隊と鉄砲隊の混合部隊を小連という。鉄砲隊が玉をセットしている間に弓隊が打ち、弓隊が矢を構えている間に鉄砲隊が打つ、という感じで、相互支援して切れ目ない射撃を加える事が出来た。
鉄砲の導入が遅れた東北、関東では鉄砲五人+弓十五人の比率だった。
導入が進んだ東海道や北九州では鉄砲十人+弓十人の比率だった。
最先端地域の関西、南九州では(鉄砲三人+弓二人+鉄砲三人+弓二人)×2の比率だった。
戦場では盾と盾の間から敵を狙って打つ。敵の攻撃が激しい場合は怖くてしっかり狙えない。命中率も落ちるし、盾の後ろから中々出てこようとしないので攻撃回数も落ちる。
逆にこちらが有利な場合はしっかり時間をかけて狙える。強気になって攻撃回数も増える。
関西型は鉄砲の高い火力を生かしつつ、弓できめ細やかにサポート出来た。火勢が途切れないので射手は積極的になれた。
全国を見てきた一益の進言で、織田軍は弓鉄砲隊を関西型に再編成した。また紙薬莢の早合も導入した。
一益は鮮やかな青い鎧、黒漆塗紺糸威二枚胴具足を着ていた。
一益は盾と盾の間に浮かぶ人間の顔を乱れ打ちで打ち抜いた。味方は強気になり、敵は弱気になった。
味方は猛射撃を切れ目なく叩き込んだ。
最初、敵はこちらが十発打つ間に七発打ち返してきた。それが時間が経つごとに五発、三発と減っていき、最後は途絶えた。
敵は打ち合いを止めて逃げ始めた。秀敏隊は突スナで追撃した。
信長隊は南に向かって秀敏隊と合流した。
両隊は協力して攻め上がった。林隊は崩壊した。
信長と親衛隊は戦場の右サイドをスルスルと南下した。林隊の本陣は最後尾にあった。
秀敏隊の先鋒は敵本陣に雪崩れ込んだ。通具は貝の兜の白い鎧、韋包段替素懸威二枚胴具足を着ていた。
通具とその親衛隊は刀を抜いて切り合った。
秀敏隊の一人が名乗った。
「織田上総介が家来、黒田半平!林美作守とお見受けいたす!いざ勝負!」
通具は刀を構えて袈裟切りで切り込んだ。黒田はバックステップで交わして、正面から突きを打った。
通具は下から左手首を切り上げた。
黒田は悲鳴を上げて倒れた。通具は息を整えて刀を構え直した。
「まだ右手が残っているだろ!立って戦え!」
黒田は片腕立て伏せするように起き上がろうとした。左手の出血が止まらなかった。顔色は瞬く間に土色に変化した。
信長と親衛隊が本陣に殴り込んできた。
親衛隊は次々と槍を投げた。その内の一本が通具の右足の甲を貫いた。
通具は姿勢を崩した。
信長は床几台(本陣のテーブル)をジャンプ台にして飛び上がり、空中から槍を投げ下ろした。通具は胸を刺し貫かれて倒れた。
柴田隊、林隊は壊滅した。生き残りは末森城と名古屋城に逃げていった。
織田軍は村の東口から馬を取ってきて両隊を追撃した。
林隊は追撃を受けてほぼ全滅した。
柴田隊は勝家隊が追撃を食い止めて何とか退却に成功した。
織田軍は空の守山城を占拠した後、清州城に帰還した。
柴田隊、林隊の戦死者は五百。怪我人を合わせると死傷者は千五百。千七百の部隊はほぼ全滅した。
一方で、織田軍も百人以上の死者を出した。信勝派はまだ六百人残していた。




