6-2
翌朝、高政は稲葉山城の本丸館広間に諸将を集めて、利政の隠居と自身の家督継承を宣言した。
「今朝方、私は父上から国を譲られた。今日から美濃は私が治める。
異議のある者は申し出よ」
既に根回しは済んでいた。七割の武将は無言で土下座した。
三割の武将はざわついた。彼らは不安な顔で周りを見回した。
重臣の明智光安は隣にいる甥の光秀を見た。
光秀は首を横に振った。七割取られた時点でもう勝ち目はないと思った。
光秀は率先して土下座した。光安は苛立った顔で頭を下げた。
光安が土下座した事で、残り三割も頭を下げ始めた。
全員が高政に土下座した。高政は宣言した。
「異論はないな。それでは、今日から私が国主だ!」
利政は隠居して高政に国主の座を譲った。
高政は稲葉山城の本丸館に入って政務を取った。利政は出家して斎藤道三を名乗り、そのまま麓の屋敷に住み続けた。殺される事も追放される事もなかった。
この当時、全国の大名は書類の決済にハンコを使っていた。
それまでの大名は書類の決裁にはサインを使っていた。しかし戦国時代に入ると大名の仕事は多くなった。昔は戦の事だけ考えていればよかったのが、庶民の訴訟から家臣の土地の相続まで一人で全部見ないといけなくなった。
大名は朝四時に起きて、夕方五時まで書類に目を通してサインを書く生活を強いられた。これでは大名の身がもたないし、仕事もたまる一方になってしまう。
こうして側近が事前に書類に目を通して、後は大名がハンコを押すだけ、というシステムが確立した。大名は命令文書を短期間に大量に発給出来るようになった。
ハンコ文化を導入した大名は内政面で進んだ大名と言えるだろう。
信長は「天下布武」のハンコを使っていた。周囲には村井貞勝を筆頭に優秀で誠実な官僚が揃っていた。
織田家は成熟した行政機構を持っていた。官僚グループが全部やってくれるので、信長の仕事は出てきた書類にハンコを押すだけだった。彼は毎日朝夕二回、馬を走らせる時間まで作っていた。
江戸時代の小説によると、天文二十三年の春、豊臣秀吉は信長に仕官したとされる。あくまでも小説なので、実際どうだったかは分からない。
資料上からは、秀吉は官僚グループの一員として働いていた事が推測出来る。
秀吉の一次資料上の初出は永禄八年。領土安堵を約束する信長の発給文書に「木下藤吉郎秀吉」と裏書きしている。
武士にとって土地は命よりも大事な物だった。領土安堵状に関与出来るのは柴田、佐久間、丹羽といった幹部クラスに限られた。
秀吉は優秀な官僚として順調に業績を上げて、この時は幹部クラスにまで出世していた。そしてこの頃から内政だけでなく、一軍を率いて合戦でも活躍し始めた。
石田三成も秀吉の官僚グループから大名に出世した。秀吉も同じような経緯でステップアップしていったと考えられる。
一方、道三の発給文書は他の大名に比べて少なかった。
側近がいないので事務処理能力がパンクしていたか。それとも、そもそも内政に興味がなかったか。文書をもらった側が道三を憎んで焼き捨てたから残っていないのかもしれない。いずれにしろ、道三の国内支持率は低かった。
道三はハンコ文化を導入しなかった。独裁体制を敷いたが、内政はほとんどやらなかった。そして自分に歯向かう人間は釜で茹でた。
高政は国主の独裁体制を重臣六人の合議制に改めて、ハンコ文化を導入した。また貫高制を導入して軍制、税制改革にも取り組んだ。治水や商業振興も積極的に行った。
美濃は高政の手で強く新しい国に生まれ変わっていった。
高政はこれで権力移譲が終わったと考えた。しかし道三は巻き返しを図って諸将に工作を仕掛けた。
権力闘争の鬼と秀才の御曹司では覚悟が違った。




