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味方侍部隊の一つ、柴田勝家隊が真っ先に追撃を開始した。二つ雁金の可愛らしい家紋の旗を背中に挿していた。
他の部隊も追撃を開始した。各隊は汗まみれ、返り血まみれの足軽隊を追い越して敵に迫った。
侍部隊は機動力の高い元気な部隊だった。足軽部隊は疲れ切った体に重たい長槍を抱えているので、必死に逃げる敵には追い付けなかった。
柴田隊の騎兵は敵の背中を捉えた。馬上の柴田勝家は弓をつがえた。
勝家は逃げる敵を弓で打って転がし、馬で追い付き、馬上から槍を突き立てた。
相手の騎兵が挑んできた。
勝家は槍で相手の下半身を狙った。突きは外れて敵の馬に刺さった。馬は後ろ立ちになって武士を振り落とした。そこに味方部隊が殺到した。
味方の武士は大型馬を好んだ。馬は大きいほどコントロールが難しかった。
興奮すると暴れて武士を振り落とした。再び乗馬しようともたついている所を敵に打たれた。
暴走して単独で敵部隊に飛び込む事もあった。勢いよく追撃していると思ったら、いつの間にか一人で敵に取り囲まれていた。
馬自体がいい的になった。矢や槍は肉に刺さるだけだが、銃弾は確実に馬の固い骨を粉砕してきた。
敵歩兵もまず馬から突きに来た。騎兵側は遠巻きに囲んでグルグル回ったり、弓を打ったりして疲れさせてから接近した。削ってからでないと対等に戦えなかった。
日宋貿易では大陸の大型馬が輸入された。宋滅亡後も大陸馬は持続的に国内に入ってきた。
源義家の時代から武士の褒美は土地か馬だった。大名は家臣に大型馬を与えて忠誠心を上げた。しかし弓鉄砲の力が強まるにつれて、大きい馬は危険になってきた。
武士は臆病者と馬鹿にされるのを恐れる。彼らは敢えて大型馬を選んだ。鉄砲がまだ大量配備されていない時代には、武士にもまだ見栄を張る余裕があった。
戦国末期、小連は鉄砲十五人+弓十人まで進化した。この火力の前ではアフリカゾウでも五秒持たない。射撃だけで敵陣を崩せるようになった。逃げる敵には徒歩の侍部隊を投入した。騎兵も槍足軽も使い道がなくなった。
日本に騎兵が存在したかどうかはよく議論になるが、これは「いたが衰退した」が正しいのかもしれない。日本の馬が欧州に比べて弱いのではなくて、日本の火力が欧州に比べて強すぎた。