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4-6

 九月、太原雪斎率いる今川軍が尾張東部に侵入した。本来なら清州城と連携した動きだったが、坂井が敗北したので今川単独での軍事行動になった。


 尾張から三河に抜けるルートは二つあった。南の鳴海城から抜けるルート。そして東の岩崎城から抜けるルートだ。藤島城は岩崎城の近くにあった。

 二つの城は同じ丹羽氏が治めていた。両者は丹羽家当主の座を巡って争っていた。今川軍は岩崎城方に味方した。

 尾張東部は信勝派の領土だった。信勝は単独で今川の大軍とは戦えなかった。かと言って信長に助けを求める事もしなかった。信勝は藤島城を見殺しにした。

 今川軍は藤島城を速攻で攻め落として後退した。尾張~三河間の陸上ルートはほぼ遮断された。


 しかし海上ルートはまだ生きていた。

 信長は今川家の勢力下にある知多半島との商業規制を撤廃した。これによって知多半島の水野家との取引が再び活発化した。

 信長と水野家の繋がりが強化された。水野家はやがて今川家を裏切って信長に再度仕える事を考えるようになった。

 事態は少しづつだが好転しつつあった。


 明けて天文二十二年正月、那古屋城の北にある平手城で平手五郎右衛門に子が生まれた。

 五郎右衛門は自ら馬に乗り、春日井で療養中の政秀に会いに行った。


 のどかな農村だった。歯の抜けた子供達が田畑で凧を上げていた。

 政秀は庄屋の前で五郎右衛門を待っていた。息子を見かけると、彼は笑顔で手を振った。


 二人は数寄屋座敷で茶を飲みながら話した。政秀は最近の織田家の情勢について、そして孫の事についてあれこれ尋ねた。

 政秀は織田家の所領経営が安定し始めた事を喜んだ。孫の誕生も大変嬉しがった。


 その晩、五郎右衛門は政秀の家に泊まった。

 夕飯には政秀が取ってきた雉鍋料理が振舞われた。夜は干したての暖かくて柔らかい布団で寝た。翌日家を出る時は自家製の酒と、庭の木に実った干し柿を持たされた。

 五郎右衛門と政秀は笑顔で別れた。

 帰り道の途中、五郎右衛門は安堵した。一時はふさぎこんで心配したが、ようやく昔の父に戻ってくれた、と。


 親子の対面から十日後、政秀は庭の木で首を吊って死んだ。



 自殺の理由は分からない。

 奇抜な恰好で遊び回る信長に抗議するために自殺したとも、信長と五郎右衛門の仲がこじれたのを苦にして死んだともいう。

 五郎右衛門が幹部待遇で信勝派に寝返ったので、息子の不忠を詫びるために自殺したという説もある。

 結局の所、自殺の理由は本人にしか分からない。

 本人は「みじめで情けない所は見せたくない」と自分の心の不調を周りに隠す。本人が「助けて」と言ってくれない限り、周りは本人の変化に気付かない。

 そしてある日、とうとう耐えられなくなって天国に旅立ってしまう。周りにとっては地獄の始まりだ。

 信長は実の父と育ての父を心の病で失った。



 二月、信長は家臣を連れて草原に鷹狩に出かけた。

 信長はビロードマントを羽織り、たてがみをドレッドヘアに編み込んだ白馬に乗っていた。いつも通りのハイファッションだった。

 信長は鷹を放った。鷹は空中を飛ぶ小鳥を一撃で仕留めた。

 鷹は獲物を連れて戻ってきた。

 信長は小鳥の腹を小刀で割き、辺りにばら撒いた。


「平手よ、食え」


 信長は春日井の農村に政秀の菩提を伴う政秀寺を建立した。

 孫は成長して平手汎秀を名乗り、信長に仕えた。

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