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織田信秀が死んだ。
信秀が家を継いだ時、織田家は尾張の三の分の一を保有する小大名だった。信秀は一代で尾張を統一し、西三河、西美濃を制圧したが、利政と義元の反撃にあって領土を失い、最後は尾張の四分の一まで領土が縮小していた。
南には強大な今川家がいた。北の斎藤家も南進の機会を狙っていた。
織田家は信長派と信勝派に分裂しつつあった。領民はどちらも信用していなかった。
萬松寺は那古野城の南にある大きな寺院である。東京ドーム四個分の広い敷地に沢山の仏閣が建っていた。
葬儀当日、大本堂に三百人の僧侶が集まった。入りきれない僧侶は廊下に立った。彼らは祭壇に安置された位牌に向かって読経した。
弔問客は正装して床に座り、黙祷した。こちらも多すぎて全員座れなかった。大本堂の前に長い行列が出来た。
葬儀には尾張国内の主だった有力者がやってきた。
尾張守護、斯波義統。わずか三才で斯波家を継いだ。それから四十年近く、彼は尾張下守護代(尾張の南半分を治める役職)の傀儡として生き続けた。失われた斯波家の栄光を取り戻すため、また下守護代の力を削ぐため、義統は信秀の行動を積極的に支持した。
尾張下守護代で清洲城主、織田信友。
織田家は守護の斯波家を補佐する重臣の一族である。岩倉城の城主が織田一門の総領として守護代を務めていた。
応仁の乱の時代、守護代の代理の小守護代が惣領家に下剋上を起こした。どちらも互いを倒しきる事が出来ず、和睦して尾張を二分する事になった。
小守護代家は清洲城に入って下守護代を名乗った。岩倉城の本来の守護代家は上守護代(尾張の北半分を治める役職)を名乗った。
信友の父、達勝は義統を傀儡に担いで織田一門の真の惣領を名乗り、上守護代家や信秀(下守護代家の重臣の家柄の出身)と争った。
信秀は尾張統一を目指して達勝と戦い、勝利した。しかし信秀は殺さずに彼を許した。
加納口の戦い後、信秀は防戦一方になった。同じ頃、達勝は病に臥せっていた。下守護代家は統制が取れなくなった。
信秀が斎藤家に攻められた城の救援のために古渡城(那古野城の南東にある城。当時信秀の本拠地だった)から出撃すると、達勝の重臣グループは独断で古渡城を攻撃した。しかし城を落とす事は出来なかった。その内に信秀軍が戻ってきて蹴散らされた。重臣グループは和睦を乞うた。信秀は彼らを許した。
和睦成立後、重臣グループは達勝を強制的に隠居させて、信友を新たな当主に据えた。
尾張下小守護代、坂井大膳。実は信友自身も坂井の傀儡だった。
下守護代家には四人の重臣がいた。坂井甚介、河尻与一、織田三位、そしてこの坂井大膳である。大膳は四人の中でも筆頭的な地位にあった。小守護代と呼ばれて守護代家の実権を握っていた。
大膳は対信秀戦を指揮した。古渡城攻撃とその後の和睦交渉も彼が担当した。
雪斎は大膳にも寝返り工作の手を伸ばしていた。
尾張上守護代で岩倉城主、織田信安。妻は信秀の妹で、筆頭重臣は信秀の弟の信康だった。彼は信秀兄弟と組んで下守護代家と争った。
両者の友好関係は信清の犬山城主就任で一変した。
信清は斎藤家と組んで信安の土地を少しづつむしり取っていった。信秀は甥を甘やかして何も言わなかった。信安は助けてくれない信秀に対して敵対心を抱くようになった。
犬山城主、織田信清。父の信康は上守護代家の小守護代とも言えるような人物だった。現在は信秀にも信友にも信安にも属さない、第四の独立勢力として活動していた。
守山城主、織田信光。信秀の弟で織田家最強の武将である。兄の死を悼んでむせび泣いていた。大勢の弔問客の中で純粋に悲しんでいるのは彼だけだった。
津島商人頭取、大橋重長。尾張西部の商業都市津島を牛耳る大商人である。当時の津島は堺を凌ぐ賑わいを見せていた。家の数は数千軒。オウムから鉄砲まで売買されていた。
大橋家は信秀と固い婚姻関係で結ばれていた。信長の母も大橋一族の出だった。
熱田商人頭取、加藤順盛。尾張東部の商業都市熱田を牛耳る大商人である。熱田は東海道最大の宿場町だった。伊勢湾に面した大きな港を持ち、海上貿易でも栄えていた。
喪主は信長と信勝が共同で務めていた。
その共同喪主の信長はまだ来ていなかった。喪主一家は困惑した。
織田家の三重臣、筆頭家老で内政担当の林通勝。次席家老で外交担当の平手政秀。三席家老で軍事担当の内藤勝介。この三人が葬儀を実質的に取り仕切っていた。
後継者争いでは三者三様の立場を取っていた。しかし信長の奇行に悩まされているのは三人とも同じだった。
織田家の若き幹部候補、強力な野戦スキルを持つ柴田勝家。軍事、外交、内政と多方面に才能を発揮する佐久間信盛。防衛戦に巧みな佐久間盛重。三人は全員親戚で、三人とも信秀によって末森城の信勝の重臣に抜擢された。
そして共同喪主で末森城主、織田信勝。当時十六才の少年だった。弔問客は正装して礼儀正しく振る舞う信勝を見て感心した。