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3-1

 尾張の織田信秀は美濃加納口の戦いで大敗した後、ストレスから病気がちになった。

 信秀は本拠地の那古野城を次男で跡取りの信長に譲り、政務を任せた。サポートには三人の重臣を付けた。

 自分は対今川の前線基地として那古野城の東に末森城を作り、三男の信勝や選りすぐりの若手家臣団を引き連れてそこに移り住んだ。

 しかし今川家の勢いは止められなかった。信秀の病は日に日に重くなっていった。


 駿河の今川義元は攻勢をかけて三河と知多半島を手に入れた。信秀は頭を下げて和議を申し入れた。義元はこれを了承した。

 義元の軍師、太原雪斎は尾張国内に密かに寝返り工作を仕掛けた。


 天文十九年一月、尾張北部の犬山城主、織田宗伝が寝返った。宗伝軍は尾張北東の春日井の信秀領を放火、略奪した。

 信秀は病を押して自ら出陣した。両軍は春日井で激突。宗伝軍は大敗した。大将の宗伝は京都まで逃げて死んだ。

 信秀は甥の織田信清(加納口の戦いで戦死した信秀の弟、織田信康の息子)を新たな犬山城主に据えた。

 犬山城は北の美濃と経済的に深く結び付いていた。軍事的にも常に圧迫を受ける土地だった。信清は独自に美濃の斎藤利政と親善交渉を行った。利政は織田家を分断すべく彼を後援した。

 信清は周辺に勢力を拡大していった。


 天文十九年七月、美濃の斎藤利政は正統な美濃守護だった土岐頼芸を追放した。

 加納口の戦いの大義は圧迫された土岐頼芸の救済だった。信秀からの攻勢はもうないと見た利政はこの機会に土岐を追い出し、美濃国内に独裁体制を敷いた。

 追放された土岐は美濃と越前国境の山岳地帯に逃げ込んだ。しかし二年後にここも追われて尾張に亡命する事になる。

 利政は権力闘争に強い剛腕政治家だったが、内政面の能力には疑問符が付いた。利政が何かを悪化させた記録は沢山あっても、改善した記録はあまりなかった。

 自身の周辺に権力を集中させた後、義元のように法律を整備して富国強兵策を推し進める事が出来れば、国内の諸豪族も彼を支持しただろう。

 しかし実際は逆だった。集めた権力を独裁体制強化に使った。罪人は軽い罪でも牛裂き(手足を引き裂く刑罰)、釜茹での刑で殺した。不満を持った諸豪族は息子の高政の元に集まった。


 天文二十年十一月、信秀が死んだという噂が流れた。

 織田家は動揺した。重臣の平手政秀は噂を打ち消し、今川家、斎藤家との和睦継続のために動いた。


 尾張国内の動揺は収まらなかった。

 天文二十年十二月、三河、尾張東部国境の岩崎城主、丹羽長清が寝返った。末森城の目の前に敵の拠点が突然現れた事になる。

 那古野城の信長は重臣の内藤勝介率いる反乱鎮圧軍を直ちに出撃させた。

 丹羽は岩崎城南東の山に伏兵を置いて内藤隊を待ち伏せた。内藤隊が山に接近した所で丹羽隊は奇襲を仕掛けた。内藤隊は大打撃を受けて敗走した。

 信長は反乱鎮圧に失敗した。目と鼻の先の末森城から信秀本人が出陣しなかった事も噂に拍車をかけた。


 雪斎は朝廷や幕府にも働きかけていた。彼は朝廷と縁の深い京都の寺で長年修行していたので独自のパイプがあった。京都の二大勢力は織田、今川の和睦を続けるよう、両家の間を取り持った。

 織田側も雪斎の工作には気付いていた。しかし二大勢力に頼まれたら断る訳にも行かなかった。


 寝返り工作の最中、義元の妻が死んだ。彼女は甲斐の前国主、武田信虎の娘だった。今川と武田は婚姻同盟で繋がっていた。

 雪斎は武田との同盟を維持するため、義元の長男今川氏真と、甲斐の現国主、武田晴信の娘との婚約を成立させた。


 義元は雪斎の功績に報いるため、彼を今川領内最大の臨済宗寺院、清見寺の住職に就けた。本来、清見寺の住職になるには足利将軍の推薦が必要だったが、義元は独断で就けた。

 また義元は朝廷に頼んで、雪斎を国内最大の臨済宗寺院、妙心寺の住職とした。こちらも朝廷の推薦が必要だったが、こちらはしっかり許可を得た。


 天文二十年秋以降、信秀が出陣する事はなくなった。本当にこの時死んだが公表しなかったという説もある。

 信秀は病気でガッツと判断力が低下していた。よくない部隊指揮で今川家に連敗した。水面下で裏切り工作が行われている事に気付いているのに、ろくに抗議もせず、形だけの和平を維持しようとし続けた。

 家臣や民衆の評価は低下した。彼らは信秀を頼りない臆病なリーダーだと考えた。信秀が(和睦維持を勧める)朝廷や幕府といった権威を言い訳にして、現実から目を背けているように見えた。

 信秀の存在感が小さくなるほど、同じ末森城にいる信勝の力が強まった。信秀の力を吸い取っていくようだった。


 天文二十一年二月、南部国境の鳴海城主、山口教継が寝返った。山口は信秀の重臣で、国境地帯を守る最重要人物だった。


 今川家の知多半島攻略戦は天文十九年冬に発生した説がある。

 これによれば、義元と雪斎は五万の兵で知多半島の水野家を攻めた。

 信秀は水野家救援のために自ら出陣したが、山口が雪斎の工作で寝返って退路を断たれたため、信秀は義元の条件を全て呑んで退却せざるを得なくなった。信秀が出した条件は水野家の存続と、織田家に協力した住民に対する報復の禁止のみだった。

 いずれにしろ、山口は雪斎と付き合いがあった。今回はその流れからの一本釣りだった。


 山口と同時に、鳴海北部の戸部城主、戸部政直も寝返った。大変武勇に優れた人物だった。一説には、義元は彼を信頼して自分の妹を嫁がせたという。


 天文二十一年三月、織田信秀の葬儀が那古野の萬松寺で行われた。

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