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2-9

 現在、臨在寺には「竹千代御手習いの間」という部屋が残されている。竹千代はここで雪斎から直接指導を受けていたというのだが、実際の所、二人の関係はよく分かっていない。

 ただ、竹千代が雪斎から大きな影響を受けたのは間違いないだろう。雪斎のスピードを生かしたダイナミックな用兵、厳しいリーガルマインド、柔軟な経済政策は後に彼も踏襲する事になる。貞観政要を愛読し、太宗のように質素倹約を愛する禁欲主義者となったのも、雪斎周辺の漢文教養を持つ人間の手ほどきがあったからだと推測出来る。


 竹千代は雪斎のいい所は真似たが、悪い所は捨てた。

 後年、彼は義元と雪斎の事をこう語っている。


「義元公は雪斎先生を過度に信頼して重臣をないがしろにした。全てを二人の密談で決める有様だった。だから先生が亡くなった後、今川家の政治は乱れた」


 竹千代は自立心の強い少年だった。雪斎という戦国一の軍師の傍にいながら、彼に完全に染まる事はなかった。反骨の三河武士の主に相応しい独立不撓の人間だった。


 人質生活から六年後、竹千代は元服して松平元康と名を改める。後の徳川家康である。


 余談だが、家康は関ヶ原合戦後、江戸から駿府に移り住んだ。そして江戸城桜田門の前に義元の菩提を弔う泉岳寺を建てた。初代住職には義元の孫を指名した。

 家康が駿府と義元を愛していたのは間違いないだろう。いい思い出しかなかった。

 家康は駿府で盛んに古今東西の名著を出版した。論語、孫子、東鑑、貞観政要……これによって日本の古典レベルは上昇した。


(続く)

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