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戦後、長福寺は敵味方の区別なく犠牲者を埋葬して弔った。江戸時代に入ってから、長福寺は両軍の戦没者名簿を作成した。「桶狭間合戦討死者書上」という。しかしこれは偽書説も根強く、信ぴょう性ははっきりしない。
桶狭間合戦討死者書上によれば、今川軍の戦死者は三千人。その内二千五百人が兵士で、五百人が指揮官クラスだった。
一方、織田軍の戦死者は千人。その内三百人が六角家からの援軍だった。
仮に三百人が戦場で怪我を負ったとする。
医療体制が不足していれば、負傷者は満足な手当を受けられずに死ぬ。最悪死者三百人、負傷者ゼロになる。
医療体制が充実していれば、助かる負傷者も増える。死者ゼロ、負傷者三百人になるかもしれない。
普通、死者の二~五倍の負傷者が出る。医療体制が充実した現代戦では死者の五倍の負傷者が出る。戦国時代なら二~三倍だ。三百人が怪我を負えば、死者百人、負傷者二百人になる。
桶狭間合戦討死者書上が真実であれば、織田軍三千は死者千、負傷者二千になる。ほぼ全滅だろう。
織田軍は五千人いたという説もある。それでも死者千なら半壊状態だろう。
確定しているのは、桶狭間で今川軍の指揮官クラスが一気に何百人も死んでいる事だ。
逆に織田軍の指揮官クラスの死者は少なかった。しかも死者は鷲津砦、丸根砦、佐々政次隊に集中しており、桶狭間ではほとんどいなかった。
今川軍首脳部は本陣に集まった所を強襲されたと考えられる。
失った兵隊は金で補充出来るが、失った指揮官は取り戻せない。今川家のように領内出身の武士から指揮官をリクルートする方式なら尚更だ。
この後、今川軍は兵の数ではなく将の質の差で追い込まれていく。桶狭間から三年後の「一宮砦の戦い」で、今川氏真軍二万は敵軍二千に粉砕された。
今川軍の監視所は織田軍を発見出来なかった。または発見したが、伝える前に攻撃が起きてしまった。
朝比奈隊は今川本陣が田楽坪の南にあると思っていた。
仮に豪雨の中、朝比奈隊が織田軍の動きを発見して、本陣に緊急を告げる伝令を出したとする。伝令は一旦田楽坪の南に向かい、それから北東の松原まで移動する大回りのルートを取るだろう。このルートは一時間ほどかかった。雨なので狼煙も使えなかった。
首脳部の判断ミスだった可能性もある。監視所は正しい情報を上げたが首脳部は正しく評価せず、適切な対応を怠った。
当時の本陣の状況を伝える数少ない資料がある。
松井の甥の子孫は尾張徳川家に仕えた。子孫は松原の西の丘に松井の墓を作った。
一八〇九年、松井の子孫、氷室長翁は松原の本陣跡に慰霊碑を建てた。
家に代々言い伝えが残っていたらしく、碑文に当時の本陣の状況が刻まれている。
―「本陣で勝利の祝い酒を飲んでいたら突然大雨が降った。やがて背中の方から大勢の足音と鬨の声が聞こえてきたが、すぐに襲われるとは誰も思わなかった」
当日の午後一時から二時までの間、推定雨量五十ミリ~八十ミリの非常に激しい雨が降っていた。風速は三十メートル以上あった。
急激な天候悪化自体は偶然である。信長の判断速度が偶然の雨を最強の武器に変えた。時間が経てば雨は止み、今川軍は田楽坪からいなくなっていただろう。
信長は少ない情報から事態を判断し、リスクを取って勝負に出た。
証拠が全部揃うまで待っていいのは警察と探偵だけだ。他の職業の人間はどこかで区切りを引いて、その時点での持ち札から最善の判断を下さないといけない。
判断の速さは自信の強さから生まれる。自己肯定感は他人を受け入れる事で高まる。人を許すほど、自分の心は強くなる。
一般的なイメージとは裏腹に、一次資料上の織田信長は優しい。「甘い」と批判されるほどだ。信長は裏切りや失敗は許した。初めて見る外国人も受け入れた。
人に優しくする事で、彼は最速の判断力を手に入れた。
(続く)
次回更新の大樹寺の陣で最終回です




