正面攻撃ルート-1
暑い日だった。
田楽坪は広く、水が豊富だった。猛暑の日に大軍を休めるスペースとしては最適だった。
今川軍の兵士は疲れた顔で木陰に座り込んでいた。
首脳部は松原の本陣で昼食を取っていた。全員口では「気を引き締めよう」とか「まだ戦いは始まったばかり」と言うが、内心では勝利を確信してたるんでいた。
義元は本陣の隅をじっと見ていた。
出陣前、義元は芭蕉という能を舞った。側近が「縁起が悪い」と言うと、義元は怒って側近を軍編成から外した。
いないはずの側近が本陣の隅に立っていた。重臣は誰も彼に気付かなかった。
義元は側近の幻を見ていた。
側近の幻は芭蕉のセリフを一節歌った。
「よしや思えば定めなき。世は芭蕉葉の夢の内に
(訳・仕方がない。この世はうたかたの夢の如し。まるで破れやすい芭蕉の葉のよう)」
側近の幻は消えた。
義元は首脳部に命じた。
「ここは危険だ。予定していた本陣まで動く」
首脳部は驚いた。義元は怒鳴った。
「聞こえなかった!?早くしろ!」
義元本隊五千は強引に出発した。
松原の本陣は休むにはいい所だが、北と西からの攻撃には弱かった。最初に予定していた田楽坪の本陣は守りは万全だった。
義元本隊は北東から田楽坪に入った。
辺りが急に暗くなった。
中島砦の信長は大きく右手を振った。織田軍は静かに動き始めた。
南の丘には今川家重臣の朝比奈泰朝の部隊が布陣していた。朝比奈隊は戦闘準備を整えて待ち構えた。
織田軍は東の丘陵地帯に向かった。
丘の麓まで来た時、辺りが急に暗くなった。
強い雨が降り始めた。西から東に向かって強い風も吹いてきた。
部隊は一時停止した。兵士は弓鉄砲をカバーで覆った。
遥かに西には熱田神宮がある。兵士は熱田大神が蒙古襲来の時のように神風を吹かせているのだと思った。大変な天気だが、不思議と嬉しくて笑みがこぼれてきた。
雨は急に激しくなった。
雨量が一時間三十ミリを越えると百メートル先の人間が見えなくなる。今回は強烈な風も伴っていた。
田楽坪は豪雨と暴風で洗濯機の中にいるようになった。
重臣の松井宗信は義元の乗る輿に駆け寄った。
「太守様、これ以上は進めません!雨が上がるまであの山で待ちましょう!」
松井は桶狭間山を指差した。
本隊は桶狭間山の西側の麓で一時停止した。
これまで本陣を張っていた松原は桶狭間山の北側の麓にあった。西側の傾斜は比較的急だった。輿で山頂までは行けなかった。
首脳部は山の西側中腹まで自分の足で上がり、そこに臨時の本陣を張った。




