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織田軍の進軍経路は諸説あってはっきりしない。
中島砦から丘陵地帯を進んだか。長坂道から正面突撃したか。
参謀本部は日本の戦史だけでなく、ヨーロッパの戦史も盛んに教えた。
軍の幹部育成学校である陸軍大学では、十八世紀の「ロイテンの戦い」を積極的に教えた。
この戦いで、ドイツ軍は丘陵地帯を巧みに使って敵の側面に回り込み、勝利を収めた。
陸軍大学は六十年の歴史で三千人の卒業生を出した。多くの人間がロイテンの戦いに関する教育を受けたが、小川又次という将軍以外は誰も再現出来なかった。
日露戦争の「得利寺の戦い」で、小川は丘陵地帯を巧みに使い、目の間にいる敵から気付かれずに側面に回り込んだ。包囲を恐れた敵が逃げ始めると、長射程の大砲で盛んに追い打ちをかけて快勝した。
小川は西洋式教育だけでは不安に思い、資料上の価値は低いとされた江戸時代の軍記物を独自に研究していた。それらの本には「信長は桶狭間で丘陵地帯を利用して敵軍に忍び寄った」と書かれていた。
いつか決定的な一次資料が発掘されて、移動ルートが確定される日が来るかもしれない。しかし資料上の正しさは必ずしも戦争の勝利に直結しない、といった所だろうか。
A 正面攻撃ルートへ
B 奇襲ルートへ




