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今川軍はかい盾、竹束を持って前進した。
城からは弓鉄砲が打ち込まれた。味方部隊は打たれ通しになりながら前進した。
玉が足元をかすめても、足軽は声を上げたり、落下地点を指差す事はしなかった。敵に照準のヒントを与えてしまうからだ。
逆にかすめた時は黙っていて、外れした時は大騒ぎした。敵は当たりもしない方向に無駄玉を何十発も打ってくれた。
視線も重要なヒントになった。
立派な前立(兜に付いているクワガタのような飾り)の兜を被った武士は、敵が鉄砲を打つたび下を向いた。
城からも大きなクワガタが何度もお辞儀する様子がよく見えた。
敵は玉が目標の手前に落ちたと勘違いした。それなら、と敵は照準をもっと高くして打った。玉は目標の頭上を飛び越した。
味方主力部隊は北西の城門に取り付いた。
城門攻撃隊は丸太を何度も城門にぶつけた。衝突の衝撃で門のかんぬきが壊れた。
主力部隊は三の丸に突入した。敵は弓、槍で応戦した。
武士の世界では徒歩で正面から槍で突いて戦う事が尊ばれた。それ以外は「犬槍」と呼ばれて非難の対象となった。
例えば、壁の後ろにいる相手を壁の隙間越しに槍を突く。あるいは、槍を自分の頭より上に持ち上げて相手を叩く。または逃げる相手を馬で追い、馬上から背中を突く。これらの行為で敵を倒しても褒められない。
投げ槍もいい顔をされなかった。
しかし槍は投げるのが一番ダメージが出る。縄文人は石の投げ槍でマンモスを絶滅させたし、ローマ兵は鉄の投げ槍でヨーロッパを征服した。
投げ槍は強いがマナー違反だった。FPSで言う所の「芋砂」のようなものだろうか。信長は投げ槍を得意にしていたという。
三の丸に突入した主力部隊は弓、槍で守備隊と戦った。雪斎は前線の部隊が疲れてくると、後方に控えていた新手と入れ替えた。その新手が疲れるとまた別の新手を投入した。
敵は戦い続けて疲弊した。味方と違って替えの部隊はいなかった。味方は新手を次々投入して三の丸を制圧した。
翌七日、主力部隊は西側通路で敵守備隊と交戦した。
その間に岡部隊は南の城門を突破して二の丸に突入した。主力部隊は西側通路を突破して北から二の丸に突入した。
敵は本丸に後退した。二の丸は制圧された。
七日夕方、雪斎は大声の家臣を選んで、本丸の門の前に立たせた。
家臣は大声で降伏を呼びかけた。
「私は駿河勢総大将、松井宗信(義元の代理として仮の総大将を務めていた)の使いの者です!
城主、織田信広様!直ちに降伏してください。あなた様が降伏すれば兵の命は取りません!
今夜一晩よく考えてください!返答がない場合、拒否した場合、翌日早朝に総攻撃をかけます!」
家臣は同じ事を数回叫んだ。
降伏勧告から数分後、織田信広は一人で本丸から出てきた。
信広は二の丸に一旦移された。
生き残りの織田軍は武装解除して城を退去した。
夜、今川軍は道の左右にたいまつを持って、城から出てくる織田軍を見送った。
十一月八日朝、今川、松平連合軍首脳部は北の丘の本陣に集まった。
仮の総大将の松井は一番奥の場所に座った。
今川家は本陣の右側に、松平家は対面の左側に座った。実質総大将の雪斎は松井の右手前の位置だった。
伝令が本陣にやってきた。
「緒川城(安祥城の北に位置する水野家の城)に織田軍出現!数は千!
旗指物から織田信長と林秀貞と思われます!」
本陣はざわついた。雪斎は尋ねた。
「城を退去した敵は?」
「緒川城に向かっております。一両日中に合流するかと思われます」
雪斎は岡部と松井に指示した。
「五郎兵衛殿(岡部)は安祥城を燃やしてください。緒川から見えるように。
五郎八郎殿(松井)は直ちに刈谷城に向かってください。今から出れば昼に着いて夕方に落ちます。城を取った後は川岸を固めて援軍の渡河を防いでください。本隊は明日の昼までに刈谷に到着します」
岡部、松井は頭を下げて退席した。
雪斎は全員に指示した。
「皆々様!もう一働きお願いしたい!次は緒川を落とします!」
信長率いる援軍千は緒川城近くまで前進していた。
信長は軍勢の先頭にいた。彼は赤い頭巾と羽織を着て、大きな馬に乗っていた。武器は刀一本で鎧を付けていなかった。
援軍は強行軍で疲れていた。兵士は汗をかいて肩で息していた。
信長は立ち止まった。
安祥城から黒い煙が立ち上がっているのが見えた。