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永禄三年六月十九日、織田軍と今川軍は国境地帯で戦闘を開始した。
十九日朝、織田軍は本拠地の清州城を出撃した。昼前には前線拠点の一つ、善照寺砦に入った。
一方、今川軍は十九日の午前中に前線拠点の沓掛城を出撃した。昼前には本日の休憩ポイント、田楽坪に入る予定だった。
織田軍は十七日の段階で休憩の情報を掴んでいた。
昼、織田軍首脳部は善照寺砦の本堂で作戦を話し合った。
善照寺砦は丘の頂上に建つ砦である。
丘の尾根伝いに西に進むと、敵の前線拠点、鳴海城があった(砦と城は東西に延びた丘の東端と西端にある)。
善照寺砦から街道を東に進むと、敵の前線拠点、沓掛城があった。
善照寺砦から湿地帯を南に進むと、もう一つの味方拠点、中島砦があった。
この中島砦の南東に敵の休憩ポイント、田楽坪があった。
善照寺砦から田楽坪に至るルートは三つあった。
A。一番遠回りのルート。所要二時間。
善照寺砦から東に街道を進む。途中で南に曲がって丘陵地帯に入る。山道を南に進んで田楽坪に入る。
B。一番早いルート。所要三十分。
一旦中島砦まで南下する。砦から街道を南東に進んで田楽坪に入る。
C。中間のルート。所要一時間。
一旦中島砦まで南下する。砦から東に進んで丘陵地帯に入る。山道を東に進み、途中で南に曲がって田楽坪に入る。
完璧に奇襲を決めたいならAルートを通りたい。しかし時間がかかるので空振りに終わる可能性もある。
Bルートは正面から敵陣地に突っ込んでいく形になる。危険だが、上手く裏崩れを狙いたい。
敵先鋒隊を短期間で壊滅させると、後方の敵は恐れて勝手に逃げていく。これを裏崩れという。
大坂夏の陣で、豊臣軍は猛射撃で徳川軍先鋒を粉砕した。徳川軍は裏崩れを起こして瓦解した。そのタイミングで真田幸村は徳川家康本陣に突撃した。
Cルートは時間とステルス性を両立させられる。一番安定したルートだった。
一番人気はAルート。二番人気はCルートで、Bルートは少数派だった。
中島砦は川沿いの平地にあった。五百メートル南の丘には敵の前線部隊が展開していた。丘からは中島砦の様子が見えた。
Aルートは完璧なステルスだが、Cルートは「中島砦に移動してきた」という事はばれてしまう(東の山道に入ってしまえば姿は見えない)。敵の警戒度をむやみに上げる動きは今は避けたかった。
Bルートは丘の部隊の目の前を横切る形で進む。都合よく強烈なゲリラ豪雨が降って、こちらの姿が見えなくなれば無事に通れるかもしれない。
とりあえず、鳴海城からの攻撃はなさそうなので、善照寺砦から五百の兵を抜いて本隊に加える事が決まった。




