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十八日、今川本隊は知立城の北にある沓掛城に入った。
夜、首脳部は本丸館の広間に集まり、明日の作戦を打ち合わせた。
そこに松平隊から伝令がやってきて、大高城の逆包囲に成功したと報告した。
首脳部は喜んだ。
今川軍の目的は大高城と鳴海城の包囲解除だった。今日、大高城の問題はほぼ解決した。残るは鳴海城である。
今川軍が鳴海方面に展開すれば、織田軍も周辺に出てくるだろう。鳴海城周辺での決戦が想定された。
鳴海城には重臣の岡部元信隊三千が入っていた。城は三つの砦に包囲されていた。
北の丹下砦には水野一門の水野帯刀隊五百が入っていた。
東の善照寺砦には織田家重臣の佐久間信盛隊千五百が入っていた。
南の中島砦には水野家重臣の梶川高秀隊五百が入っていた。
大高城は落城寸前だったが、鳴海城はまだ十分な余裕があった。
首脳部は一帯の地図を使って作戦を話し合った。
敵地に向かうには三つのルートがあった。西に真っ直ぐ進む近道。南に時計回りに進む回り道。南東に向かって斜めに進む中間の道。
沓掛~鳴海間には並行して三つのルートが走っていた。
一つ目は鎌倉街道。沓掛城から西に向かって伸びる道だ。ここを進むと鳴海城の東側の善照寺砦に着いた。道は整備されて広かった。
二つ目は東海道。鎌倉街道の南に並行して走る道だ。ここを進むと鳴海城の南側の中島砦に着いた。道は未整備で狭かった。
最後は大高街道。東海道の南に並行して走る道だ。ここを進むと大高城に着いた。道は整備されて広かった。
鎌倉街道~大高街道の一帯は丘陵地帯になっていた。東海道を境目にして、丘陵地帯は北部と南部に分かれた。休憩地の田楽坪は南部丘陵地帯の南端部にあった。
沓掛街道から南に向かって東浦街道が伸びていた。道は整備されて広かった。東浦街道を途中で西に曲がれば東海道に、もっと進んだ所で曲がれば大高街道に入った。
鎌倉街道の途中から東海道に、または東海道の途中から大高街道に入る事も出来た。道は整備されて広かった。
まとめると三つのルートになる。
A。鎌倉街道。一番早いが危険。
B。東浦街道~大高街道。一番遅いが安全。
C。鎌倉街道~山道~東海道~山道~大高街道。それなりに早く、それなりに危険。
鎌倉街道は鎌倉時代に整備された道である。時代によってルートが異なった。
鎌倉時代の気候は温暖で、丘の麓はぬかるんだ湿地帯だった。道は乾いた丘の上を通っていた。この時代の鎌倉街道は沓掛城から真っ直ぐ西に伸びていた。
戦国時代の気候は寒冷で、丘の麓は固まっていた。道は丘と丘の間の平地を通っていた。この時代の鎌倉街道は沓掛城から南西に伸びていた。
西へ直進する道はこの当時メインではなかった。利用者は平地の楽な道を通っていた。整備も進んでおり、道幅は広かった。
なお、戦国時代の鎌倉街道と東海道が合流する辺りに沓掛峠という丘があった。ここが三河と尾張の国境になっていた。
事前の計画ではCルートを通って大高城に入る予定だった。特に大きなトラブルもないので、首脳部は予定通りの行動を取る事にした。
大高城から鳴海に行くには二つのルートがあった。
鷲津砦の西側を通り、沿岸部の湿地帯を北上するぬかるんだルート。
丸根砦の東側を通り、内陸部の乾いた道を北上するルート。
本隊は乾いたルートを使用する予定だった。




