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2-3

 駿河、遠江全域に出陣命令が下された。命令は駅伝制を使って各地の城に素早く届けられた。


 義元は寄親寄子制をいち早く導入した大名として知られる。

 これまでの戦では、大名は部下に出陣をお願いする形を取っていた。部下は何人出すとその場では約束するが、勝てない戦では約束より少ない人数を連れてきた。逆に勝てそうな戦では褒賞目当てで沢山連れてきた。大名は当日にならないと自軍の総兵力が分からない有様だった。

 寄親、寄子制では大兵力を安定して運用出来た。

 義元は部下の武将に領地を与えた。武将には領地を調査して、どれだけの収入が上がるか報告させた。義元はその収入に見合った兵力を提供するように命令した。例えば一万石の領地を持つ武将には二百人出せ、といった感じである。

 武将の領地の農村には小豪族が沢山いた。武将は彼らを保護した。小豪族はその見返りに兵力を提供した。武将が仮の親、寄親となり、小豪族が仮の子、寄子となった。

 命令は大名→寄親→寄子とスムーズに通達された。


 午前中に出陣命令が届くと、農村の二十代、三十代の男性は小豪族の館に一旦集まった。ここでレンタルの武器や鎧を受け取り、飯を食って午後には寄親の武将の城に向かった。各地から集まってきた寄子隊はここで集結して寄親隊を編成した。

 翌朝一番で寄親隊は城を出発。街道を高速移動して戦地に向かった。


 出陣命令から数日後、今川軍一万は西条城の北東に進出した。吉良家は今川家の素早い動きに対応出来ず、五百の兵を何とかかき集めるに留まった。


 開戦前、雪斎は手紙を吉良家の家老に送った。分家の家臣が吉良義安に直接手紙を送る事は礼儀の上で許されなかった。

 手紙では、雪斎は吉良と今川の長年の友好関係を説き、今回の出陣は本意ではなかった事を説明した。そして昨今の悪い流れは全て吉良家を影から操る後藤平太夫のせいだ、と主張し、後藤の首を差し出せばすぐに退く、この件で一度話し合いたい、と交渉を求めた。


 吉良家は要求を拒否した。分家に頭を下げる事は決して出来なかった。一説には、義安の兄で前吉良家当主の吉良義郷は朝比奈泰能との合戦に負けて戦死したといい、義安は兄の仇を許す事が出来なかったともいう。


 吉良軍は兵五百で城から出撃した。雪斎は朝比奈泰能の部隊千を前面に展開した。

 両軍は西条城前で激突した。

 吉良軍は奮い立って前進した。朝比奈隊は適当にいなしながら徐々に後退した。

 雪斎は岡部隊、松井隊を繰り出した。

 岡部隊、松井隊は突っ込んでくる吉良軍の両サイドを包囲した。吉良軍は壊滅した。


 雪斎は空になった西条城に松井隊を率いて乗り込み、親今川派の重臣グループと直接交渉に及んだ。

 重臣グループは要求を全て受け入れた。彼らは後藤を殺し、西条城を明け渡し、義安を人質として駿府に送った。

 吉良家は事実上滅亡した。



 戦闘は任意の場所に敵より早く多く兵を集めた側が勝つ。

 今川軍の強さは街道整備と寄親頼子制にあった。寄親寄子制と検地はセットで運用された。どちらも小豪族の自主性を奪い、負担を増大させるものだった。戦って三河を奪ったとしても、新システムを導入すれば小豪族は必ず反乱を起こすだろう。

 また小豪族を完全に武将の下にまとめたとしても、武将が大名に反乱を起こす可能性は常に残っていた。武将に土地を与えるという行為自体が、潜在的な敵を作る事に他ならなかった。


 幕臣の福地源一郎は明治維新後、幕府衰亡論を発表した。

 福地によれば、徳川家康は地方分権の封建制度を廃止して、中央集権の郡県制度を目指していたという。しかし幕府創設当初は外様の力が強すぎたので妥協せざるを得なかった。

 家康から家光まで、幕府は廃藩置県を起こす勢いで大名家を潰し回った。しかし四代目の家綱は封建制度を存続させる方向に方針転換した。

 武将は土地を与えられた瞬間から他人になる。自分の土地が一番大事になり、自藩を犠牲にして幕府を守るという気持ちはなくなってしまう。これは封建制度が必ず辿る道だった。土地を与えるという行為は、親藩や譜代でさえ敵対的な外様大名に変えてしまう。

 だからこそ家康は苦心して廃藩置県を目指したのだが、子孫は安易な妥協の道を選んだ。それが幕府滅亡の遠因だと福地は語る。

 実際、福地が生きた幕末は大名全員が敵に回った。幕臣も自分の権力確保のために派閥を作って徳川慶喜に対抗した。慶喜の味方はごくわずかだった。


 家康の遺志を貫徹していれば、廃藩置県が完成して元禄維新が起きていたかもしれない。江戸幕府の全盛期に積極的な海外政策を推進していたら、日本は今どんな国になっていただろうか。

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