10-13
梶島奇襲の後、吉良家の家臣一人が逃亡した。
元康は知多半島を治める叔父の水野信元に、今川家に属するように勧める使者を二度送った。しかし信元は二度拒否した。
四月、義元は領内に総動員令を出した。
今川家の本拠地駿府は戦争一色になった。
各地から部隊が毎日やってきた。寺や神社は兵士の宿所になった。訓練の銃声や馬の鳴き声が街のあちこちから聞こえるようになった。
駿府の中心地に義元が住む駿河守護館、通称今川館があった。元康はこの立派な屋敷を訪れた。
小姓に先導されて、元康は縁側の廊下を歩いた。
庭で今川氏真と男女数十人が風流踊を踊っていた。
太鼓や笛を奏でて集団で歌い踊る祭りである。静岡祭りの「平成ちゃっきり節」のようだった。氏真は自ら太鼓を叩いて盛り上げていた。
氏真は元康を見かけると、嬉しそうに手を振った。元康と小姓は頭を下げた。
「あれ、蔵人殿。ご一緒にいかが?」
「今、用事を済ませて参ります。後で踊りに参ります」
「約束しましたぞ~」
氏真はまた踊りに戻った。小姓は苦々しい顔になったが、元康は柔らかい顔で微笑んだ。
屋敷の奥に義元の私室があった。
元康と小姓は私室の戸の前に座った。小姓は戸越しに呼びかけた。
「太守様。松平蔵人佐様です」
「通してくれ」
小姓は戸を開けた。
数寄屋造りの立派な座敷である。八勝館御幸の間のようだった。
義元は床の間の前に座っていた。少しやつれたように見えた。
元康は机の前に座った。小姓は戸を閉めて立ち去った。
義元は元康に言った。
「来月、尾張に攻め込む。大高城で信長と後詰決戦だ。お前には先鋒を任せたい」
「ありがとうございます。先鋒の務め、必ず果たしてご覧に入れます」
「うん……」
義元の反応は鈍かった。元康は体調を気遣った。
「お体の具合がよろしくないように見受けられます。ご自愛なさってください」
「最近、上手く寝られなくて。浜辺で襲われた後、色々と考える事が多くなった。
笑わないでくれよ?最近、二十年前に死んだ兄弟の幽霊が枕元に立つんだ。恐ろしい顔で『信長とは戦うな。家が滅ぶ』と俺に話しかけてくる」
「和剤局方(中国の医薬書。元康の愛読書の一つ)に不眠に効く薬の製薬方法が載っています。後で調剤してお渡します。それと信頼出来る口の堅い医者も用意します」
「ありがとう。俺が弱っていると知れれば、それこそ家が滅ぶ」
義元は元康の目を見つめた。
「雪斎先生が亡くなってから、俺は一人で家を守ってきた。自分でも気付かない内に、毎日心身をすり減らしていたんだろう。そのツケを今払っている。
なあ、今俺が倒れたらどうなる?氏真……氏真では……」
庭から太鼓の音や陽気な歌声が聞こえてきた。
元康は義元をいたわった。
「太守様は心も病にかかっておられます。素人医者の見立てですが、太守様は一人で全てやろうとしておられるのではないでしょうか。そのために心に重荷がかかっているのでは、と推察します。
太守様さえお望みになれば、我々は幾らでも力になります。しかし太守様に『力を貸すな』と言われたら、我々に出来る事は何もありません。
勇気を出して『力を貸してくれ』と仰ってください。それで心は治ります」
「……先生は俺にとっての孔明だった。誰もあの人の代わりにはなれない。ずっとそう思っていた俺の前に、お前が現れた」
四十二才の三国太守は、まだ何者でもない十七才の少年に頭を下げた。
「今川の光になってくれ……」
元康は退室した。彼は考え事をしながら一人で廊下を歩いた。
雪斎もあの世で「ようやく後任が決まった」と喜んでいるだろう。
今川のために生きるか。松平のために生きるか。いつかどこかで決めなくてはいけない。