10-12
昼前になった。風が冷たくなってきた。
沖合に数隻の船が見えた。一行は漁師の方ばかり見ていて気付かなかった。
元康は義元に向かって駆け出した。元康の家臣、石川家成は馬に鞭を当てて北に走った。
船の後ろに数十隻の船が見えた。船団は織田家の黄色い旗を掲げていた。
ここに来て、一行もようやく異変を察して声を上げた。
漁師は網を捨てて逃げ出した。家臣はどうしていいか分からずその場でうろたえた。
重臣で警備担当者の松井宗信は叫んだ。
「慌てるな!太守様をお守りしろ!」
元康は義元に駆け寄って進言した。
「高台に神社があります。一旦そこにお逃げください。その間、ここで食い止めます」
義元は頷いた。
「私の馬をお使いください。勝手ながら東条城(宮崎海岸の北にある今川方の城)に救援を送りました。一刻もすれば救援が来るでしょう。それまでは何としてもご辛抱を」
義元は松井に命じた。
「神社に逃げる。付いてこい」
松井は泰朝に指示した。
「お前が大将だ!方法は任せる!少しでも長く時間を稼げ!」
泰朝は「はい!」と答えた。緊張で声が裏返っていた。
義元と松井は松林に向かった。元忠は深々と頭を下げた。
「道は全て頭に入っております。ご案内します!」
家臣の一人、平岩親吉が松井に声をかけた。
「松井様、我が馬をお使いください!私は浜で手柄を上げたく存じます!」
一行は馬に乗って神社に向かった。道に迷う事はなかった。一行は地元民しか知らない小道も使って素早く目的地に移動した。
元康達は宮崎海岸に残った。
沖合の船は数百隻に増えていた。黄色い旗を掲げた大船団は刻々と浜辺に迫ってきた。
家臣の顔は青ざめた。こちらは着物を着た四十人。刀しかない。向こうは鎧を着た七百人。槍も鉄砲も持っている。
何人かは死を悟って泣き出した。しかし誰も逃げ出さなかった。全員震えながら必死にその場に立ち尽くした。
泰朝は船団に向かって大声を上げた。
「さあ来い!今川武士の意地を見せてやる!」
泰朝は船に向かって何度も悲痛に叫んだ。
「どうした!?さあ来い!俺が怖いのか!」
喚き散らすマルチーズの隣で、チベタンマスティフはじっと沖合を見つめていた。
元康は静かに口を開いた。
「備中(泰朝)殿。船団中央の船をご覧ください。
一番頭のおかしい恰好をした男が織田上総介殿です」
中央の船の穂先に、卒塔婆を立てた兜、五輪塔六字名号頭立兜を被り、黒のマントを羽織った武将が立っていた。
元康は刀を抜いて構えた。
「ここで上総介殿を討ちます」
泰朝達は元康の冷静な姿を見て落ち着いた。彼らも刀を抜いて構えた。いつの間にか震えは消えていた。
曇り空から小雨が降り始めた。
敵味方は海を挟んで静かに睨み合った。
船団の先鋒は沖合の島を越えた。
雨は急激に激しくなった。
着物の染料が落ちた。紺色や草木色の汗が垂れ落ちた。
海は波がうねって船が揺れた。
雨はゲリラ豪雨となって激しく降り注いだ。
中央の船団から合図の火矢が空へ打ち上げられた。船団は百八十度Uターンして戻っていった。
家臣は腰が抜けて浜辺に座り込んだ。命拾いした、と抱き合って泣きながら喜ぶ者達もいた。
泰朝は気を抜かずに刀を構え続けた。柄を握った指の爪が白くなるぐらい、体に力が入っていた。
元康は拍子抜けした顔で刀を収めた。
船上の織田軍は確かな手ごたえを感じていた。
天候のアクシデントもあって、最後で詰めを誤ったが、途中まではばれずに接近出来た。この案をブラッシュアップすれば勝てるのではないか……
織田軍が一斉に船の梶を切ってUターンした事から、沖合の島は後に「梶島」と呼ばれるようになった。