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三河は四年間の内乱で荒廃していた。
今川義元は三河復興に力を注いだ。大政治家の手腕で三河は急速に復興していった。
義元一行は選りすぐりの家臣五十人を連れて三河国内を見て回った。査察団には松平元康も加わっていた。
死体が散乱していた野原は田畑に変わった。街に人が戻り、物資の往来は活発になった。
物質面は一早く蘇ったが、人心はまだ荒んでいた。どこに行ってもトゲのある視線を感じた。住民は些細な事で大声を上げた。
そんな中、吉良家臣の一部は敵意を隠して下手に出てきた。
元康は違和感を感じた。
ある日の朝、義元一行は吉良領の沿岸地帯を訪れた。
一帯は南の渥美湾に向かってU字に突き出した地形だった。
西側には小さな漁港があった。
南端には蛭子岬。岬の高台には幡頭神社があって、周辺を一望出来た。
東側は宮崎海岸で、「愛知のハワイ」と呼ばれる海水浴スポットになっていた。
この辺りは三河でも特に温暖な地域だった。丘や林には桜が咲いていた。
義元一行はU字の北側にある正法寺に入った。
一人の商人が建物の陰から一行の様子を伺っていた。一行が寺に入ったのを確認すると、商人は駆け出した。
正法寺はいつ創建されたかも分からない古い寺だった。一時寂れていたが、足利尊氏が再建して立派な寺に蘇らせた。尊氏に一番近い血筋を自慢する吉良家にとって、正法寺は特別な寺になった。
今川家は吉良家の分家だったが、下剋上で吉良家を実質的に滅ぼしていた。義元は吉良家に代わって正法寺を保護した。義元と寺は互いに気を使い合う微妙な関係だった。
義元の巡察に当たって、寺側は一行を花見や舟遊びで接待したい、と提案した。義元は気は向かなかったが了承した。
義元は本堂で住職と面会した。
住職は義元をねぎらった。
「よくおいでくださいました。お疲れでございましょう。
座敷を用意しておりますのでお使いください。準備が整い次第、お声がけさせてもらいます」
「ありがとうございます。最近は気が滅入る事ばかりです。今日は乙川の美しい桜を眺めて心を休めたいと思っています。海からの花見、楽しみにしています」
一行は立派な座敷に通された。
義元と側近官僚数人は机と筆を出して、溜まっていた書類にサインした。
護衛は座敷の戸の前や境内に立って警護した。
松平元康は境内に立って不審者に目を光らせた。庭の桜は満開だったが、天気は曇り空だだった。午後には雨が来るかもしれない。
家臣の一人、朝比奈泰朝が元康の所にやってきた。
父は筆頭重臣で三河方面を担当していた朝比奈泰能。二年前に泰能が死んだ時、義元は自分の父が死んだ時と同じ規模の葬式を開いた。
泰朝は元康に会釈した。元康は今川家のプリンスに深々と頭を下げた。
泰朝は要件を述べた。
「松井様からです。蔵人殿(元康)は松平党十騎を率いて陸を警護してください。俺達は船に乗って太守様をお守ります」
「分かりました。ご武運をお祈りいたします」
「ハハ。大げさですよ。
蔵人殿が『怪しい』と言った時は不安になりましたが、今日は何事もなく済みそうです。あなたが言えば冗談でも皆信じるんだ。外れたお詫びに一人に酒樽一個奢ってくださいよ」
二人はクスクス笑った。