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今川家は駿河十五万石と遠江二十五万石を治めていた。二国の大名だが、石高は四十万石と少ない。その四十万石の大名が尾張六十万石を治める織田信秀を圧倒し、三河支配に王手をかけていた。
今川家には石高では表現出来ないストロングポイントがあった。金山と物流である。
駿河は古代から金を豊富に産出する産金地だった。富士山周辺には国内屈指の大金山もあったが、ほとんど手つかずのままだった。
当時は川底を浚って砂金を細々と取っていた。しかし義元の時代に大陸から灰吹法という新技術が導入された。これで山を掘って大量の金を得る事が可能になった。
しかし金だけあっても物を売り買いしなければ商業は発展しない。スペインは南米の金を必死になって集めたが、勝ったのは海上貿易で発展した商業国家のオランダ、イギリスだった。
義元は街道や宿場町を整備し、また運送業を保護して物流を強化した。そして有力な商人をエリアマネージャーに抜擢して、領内各地の商業都市を統括させた。
今川家はスペインとイギリスを足したような国だった。莫大な黄金と商品流通の円滑化によって、義元の時代に駿河遠江は飛躍的な経済発展を遂げた。
今川家の本拠地、駿府。京都をモデルに作られた文化都市である。地名にも京都の地名が使われていた。
駿府の繁栄を聞きつけて、京都から多数の貴族や文化人が移住してきた。今川家は彼らを積極的に保護した。駿府はやがて東の京都と呼ばれるようになった。特に蹴鞠が盛んだったという。
街の中心部に歴代当主が住む今川館があった。
義元は射撃場で火縄銃を打っていた。
義元は先々代当主の今川氏親の四男として生まれた。父と兄の死後、家督を継いで十年で今川家を東日本屈指の強国に成長させた。
「短足で肥満体だった」、「輿で移動した」といった有名な話は後世の創作とされる。
義元は個人武勇に優れていた。戦場では馬に乗り、槍を振るって敵を蹴散らした。
細やかな気配りの出来る人物だった。家臣の小姓が元服すると、家臣と小姓にセットで槍を二本送った。駿府には各地から人質が連れてこられていたが、親元から離れて過ごす彼らが寂しくならないように温かい内容の手紙を送った。
義元のエピソードにはオカルト関連の話が多い。今川館に大昔から住む落ち武者の霊と話したとか、寝室に死んだ兄の霊が現れたので切りかかったとか。
仕事が忙しくて眠れない状況が続くと、脳がバグって幻覚が見える。幽霊が見える職場はどこもハードワークだ。表では優しくて勇敢な姿を周囲に見せていたが、裏では睡眠時間を削って職務や勉強に励んでいた、のかもしれない。
雪斎が射撃場にやってきた。義元は射撃を止めて鉄砲を近習に預けた。
二人は合掌して頭を下げ合った。
雪斎は今川家の外務大臣と経産大臣と防衛大臣と官房長官を一人でこなす男だった。彼は総理大臣の義元と二人三脚で今川家の全盛時代を築き上げた。
元は京都五山で修行する優秀な僧侶だった。今川氏親は雪斎に何度も頼み込んで四才の息子、義元の家庭教師になってもらった。
義元が七才になると、一緒に京都に上がって五山で修行に励んだ。今川氏親の死で一度駿河に戻ったが、情勢が落ち着くと再び京都に上がって学識を深めた。
氏親の跡を継いだ長男の氏輝は三河に進出するが、松平家に大敗した。氏輝は方針を転換して北の甲斐武田侵攻を計画した。そのために京都から十三才の弟義元を呼び寄せて、甲斐と駿河の国境地帯を任せた。
義元が十六才の時、長男の氏輝と次男の彦五郎が同じ日に死んだ。義元は直ちに還俗して重臣グループの大半の支持を固めた。そして武田家との和睦を成立させて、再び三河攻略に方針を大転換させた。
重臣グループの一部は反乱の動きを見せた。雪斎は反対派のトップ、福島正成と会談して説得したが、交渉は不調に終わった。
福島は三男の玄広恵探を担いで反乱を起こした。反乱は駿河、遠江全体に広がった。
雪斎は素早く軍を動かして二週間で反乱を鎮圧した。福島と玄広恵探は追い詰められて自害した。
義元は雪斎を特別顧問に指名した。雪斎は今川家の軍事、内政、外交全てに関わった。
武田とは婚姻外交で絆を深めた。義元は当主信虎の娘と結婚し、信虎の息子晴信は今川家の親戚の公家の娘と結婚した。
相模の北条家が駿河東部に侵入してくると、北条と敵対関係にあった北関東の上杉家と結んで挟み撃ちを仕掛けた。北条家は義元と和睦して駿河東部から撤退した。
内政では金山開発と物流強化を重視して商業を振興した。軍制改革に取り組み、法制の改訂にも関わった。
雪斎は今川家の絶対的ワントップだった。
義元は雪斎に指示した。
「今年の収穫が終わりました。冬が来る前に安祥城と西条城を落としたい。先生、軍をお願いします」
「西条の『お屋形様』はどうする?」
「一旦駿府に連行してください。助命の条件は家中の親織田派の粛清です。様子を見て西条に戻します」
足利幕府にも御三家があった。吉良家、渋川家、石橋家である。この中で吉良家が筆頭だった。
吉良家はかつて三河の正統な支配者だった。一時期は遠江まで勢力を伸ばしたが、ここで駿河から遠江に進出してきた今川家と激突した。吉良家は大敗して遠江を失い、三河に引き込んだ。その三河も新興の松平家に奪われてしまった。現在は岡崎城の南の西条城周辺を領有する小大名に転落していた。
今川家は吉良家の分家だった。力で圧倒するようになった今でも、形の上では吉良家に従属しており、「お屋形様(一国を治める名門大名の呼び方。幕府に許可された家しか使えない)」と尊称で呼ばなければならなかった。
現在の吉良家当主は吉良義安という十三才の少年である。中学一年生には衰えた名門一族は統制出来ず、吉良家は義元派と信秀派に分裂してしまった。信秀派は義元派を排除して吉良家の実権を握った。吉良家は織田と同盟を結んで反今川の立場を明らかにした。
雪斎は合掌して退出した。
射撃場前に今川家の重臣や若手武将が複数集まっていた。
朝比奈泰能、岡部元信、義元の精鋭親衛部隊を率いる松井宗信……
全員雪斎に向かって深々と頭を下げた。
雪斎は全員に命じた。
「太守様(複数の国を支配する名門大名の呼び方。お屋形様より上)から命令だ。直ちに兵を挙げて三河に向かう。狙いは西条城、そして安祥城」
西条城の名前を聞いて、全員が緊張した。
「後藤平太夫(義安の祖父で親織田派筆頭の重臣)を殺して西条城を接収し、お屋形様を駿府にお連れ申し上げる。
戦の前に交渉する。応じなければ開戦だ。素早く一気に叩き、相手を交渉の席に引きずり出す。
よし、では行こう」
全員「はい!」と声を合わせた。