小さな打算【sideセシル】
胸の奥から湧いてくるなんとも言えないそわそわした気持ち。
この初めての感覚を持て余した僕は、どうしたものかと悩んだ。
王子という立場上、将来の花嫁にと格式ある家柄の女の子と引き合わされることは、普段からよくある。
どの子も品があり綺麗に着飾っていて、可愛らしいなと思ったりもするが、こんな風に胸が高鳴ったことは一度もない。
これが恋?
キャベンディッシュ公爵邸に来てからの数日間、ソフィア嬢と廊下や庭先でばったり顔を合わせると、どうしていいかわからず逃げるようにその場を後にした。
「こんにちは」と小さな声で挨拶され、あの大きな瞳に見つめられるだけで、心臓がどくどくして変な汗が吹き出る。居ても立っても居られない。
それでも、毎日3度の食事の際には、嫌でも顔を合わせることになる。焦った僕は、ひたすらアランとクリスに話を振り、ソフィア嬢の方にはできるだけ顔を向けないようにしてやり過ごした。
背を向けているからわからないけれど、ソフィア嬢にじっと見つめられてるんじゃないかと思うと、それだけで背中がじっとり熱くなってくる。
本当に一体、僕はどうなってしまったんだろう。
母はあれからマリアンヌ様とすっかり打ち解けて「マリアちゃん」「ナーシャ様」と気軽に呼び合うほど仲良くなっていた。アンドリュー伯父さんが割り込む隙もないくらい始終一緒にいるので、ちょっと可哀想になってくる。
その一方で、僕の様子がおかしいことにはちゃんと気づいているようだ。
「セシルどうしたの?ソフィーちゃんにあんな態度とって。いつものセシルらしくないじゃない」
母の言葉に、僕は黙って俯く。
王宮での僕は、両親を取り巻く貴族達はもちろん、城に仕える騎士や執事、侍女達など、誰にでもにこにこと愛想を振りまきまくっている。それは、王位継承権を持つ者として常に誰かに見られていると思え、という父の教えからであり、幼い頃から実践してきた結果、今では呼吸するのと同じくらい自然にできていることだった。
それが、ソフィア嬢を目の前にすると簡単な挨拶すらできないのだ。母は黙ったままの僕の頭に、ぽんと手を置いた。
「ソフィーちゃんが嫌いなのね」
「それは違う!」
思わず叫んで顔を上げると、びっくりしたように目を大きく見開いた母と目が合った。
しまった、と思った時には、母の顔はにんまりと楽しそうに笑っていた。
「そっかー」
顔中に体の熱が上がってくるのがわかる。
今度は、あははと楽しそうに声を上げて笑いながら、母は窓辺に体を寄せた。
「セシルがよりにもよってソフィーちゃんをねー。なかなか苦労する道を選んだわね、我が息子よ」
窓の外では、ソフィア嬢とアランが仲良く手を繋いで庭を散歩していた。親の再婚前にも何度か会ったことがあるとアランが言っていたが、もうすっかり仲睦まじい兄妹に見える。
「セシルよく覚えておきなさい。恋愛に限らず、自分が思うように行動できない時はまず、周りをよく観察すること。その目で見えるものをしっかりと心に刻むこと。そうすれば自ずと、この先何をするべきなのか、自分がどうしたいのか、わかるはずよ」
いつもよりワントーン低い声色で、諭すように母は言った。
こういう話し方をする時の母は、王妃として貴族に相対する時のような威厳をまとっていて、僕も自然と敬礼してしまう。
「ご忠告胸に留めておきます」
そう返しながら、窓の外の兄妹を見つめる。
ふと小石か何かに蹴躓いたのか、ソフィア嬢が一瞬よろめき、アランがすかさず抱き止めた。
恥ずかしそうに少し俯くソフィア嬢。
しかしすぐにまた笑顔に戻り、アランの手を取って歩き出した。
その一瞬の表情に、僕の胸はぎゅっと縮こまった。
もしかしたら。
ソフィア嬢はアランを…?
その後、ソフィア嬢の行動を注意深く観察してみると、どう見てもアランに好意を寄せているなと思うことばかりだった。
食事中、アランと喋りながらふとナイフを置くふりをしながらソフィア嬢の方を振り返ると、必ず目があってすぐに逸らされた。ソフィア嬢と廊下で出くわすのは、ほとんどがアランの部屋で遊んだ帰り、アランの部屋を出てすぐの場所だった。伯父さんにアランのスケジュールを聞いて、勉強の時間が終わる頃にアランを尋ねると、2回に1回はソフィア嬢の方が一足早く来ていて、アランと一緒に散歩したり絵本を読んだりしていた。
これほどわかりやすく行動されると、いっそ清々しい。でもソフィア嬢本人は、うまく隠せていると思い込んでる風なところが、何ともおかしい。
僕がソフィア嬢に対してこんなにドキドキするのと同じように、ソフィア嬢もアランに対してドキドキしているんだろうか。
だとしたら、こんな汗ばむ状況で必死にアランと関わろうとするなんて、その行動力に心から尊敬する。僕にはとてもできない。
でもせめて、ソフィア嬢のその気持ち、僕は気づいてるよってことくらいは、伝えてもいいんじゃないか。何とも落ち着かないこの気持ち、同じ気持ちを抱えている者として。
そんな風に考えるようになったある日、いつものようにアランの部屋でたっぷりと話し込んだ後、廊下の片隅でソフィア嬢と遭遇した。
「ねえソフィア嬢」
いつもならすぐに立ち去る僕が、突然話しかけたりしたから、ソフィア嬢は大きな目をさらに真ん丸にして、怪しむように僕の顔を覗き込んだ。
いつもより間近に迫る彼女の顔に、全身の毛穴が噴火しそうなほど緊張して焦った僕は、早口でまくし立てた。
「アランが僕とどんな話してたか、知りたい?」
ああ、違う。
こんなことが言いたかったんじゃない。
もっとソフトに優しく、自然にアランの話を振るはずだったのに。
これじゃただの嫌味な奴じゃないか。
ところがソフィア嬢は、目をキラキラと輝かせて僕の手を握ると
「教えてくださるのですか」
と、ものすごい勢いで僕を自室に連れ込み、甘いお菓子とおいしいお茶でもてなしてくれたのだった。
おそらくソフィア嬢は、兄に対する恋心を打ち明けられる相手が誰もいなくて、彼女なりに色々溜め込んでいたのだろう。マシンガンのごとくアランを褒め倒し、かと思うと僕の話には食い入るように静かに耳を傾けた。
「色々お話しできて嬉しかったわ。また相手してくださる?」
初めて向けられた彼女の満面の笑みに、僕は舞い上がりながらも「ぜひとも」と返した。
それから僕達は少しずつ仲を深めていくこととなる。
それまでまったく口をきかなかった僕とソフィア嬢が、お互いの部屋を行き来し始めたことに怪しんだクリスも、その後すぐにソフィア嬢の気持ちに気づき、同じように親交を深めていくこととなる。
程なくして母は僕達双子とともに王宮に帰還するわけだが、その後も僕は何かと理由をつけてはせっせとソフィア嬢のもとに通い詰めた。
ソフィア嬢と同じ時間を過ごせるのは素直に嬉しい。会うごとに緊張せずに話せるようになってきて、どんどん楽しくなってきている。
僕を惹きつける強い瞳と同じように、彼女は自分の意思がはっきりしていて、それを躊躇なく口にする。それでいて押し付けがましいだとか自己中心的な印象を受けないのは、言葉の選び方が上手いんだと思う。これは伯父さんがつけた家庭教師の成果ではなく、彼女の生まれ持った性格がなせる技じゃないだろうか。平たく言って、頭が良い。だからどれだけ話していても飽きない。王宮を取り巻く女の子達とはまるで違う。
こうして僕はどんどんソフィア嬢にはまっていくのだが、ソフィア嬢の心の中心には常にアランがいる。アランがいなければ、と思うこともあるけれど、アランがいなければそもそも僕からソフィア嬢に話しかけることも、こんなに親しくなることもなかったかもしれない。複雑だ。
当のアランは、ソフィア嬢のことを本当の妹のように可愛がっていて、それ以上でもそれ以下でもない。あんなに素晴らしい令嬢に想われていて、なぜあんな冷静でいられるのか、僕からしたら不思議で仕方ない。ともあれ、2人が決して結ばれないことが、僕の救いにもなっている。
やがてアランが、寄宿学校に入るという話を聞いた。騎士を養成する学校らしい。何だってまたそんなところに? アランの家柄と頭の良さなら、騎士になんかならなくたって将来は約束されているようなものだ。
「実は昔から騎士には憧れてたんだ。だからって、本当になるかどうかはわからないけどね。家のこともあるし」
すぐさま公爵邸に乗り込んでアランを問い詰めると、わかったようなわからないような返事が返ってきた。
そして案の定、ソフィア嬢はショックに打ちひしがれてぼろぼろの佇まいだったが、僕とクリスがやいのやいの言っているうちに元気になったみたいで、本当に良かった。
この国では14歳の誕生日を迎えると、成人とみなされる。と同時に社交界デビューを果たす。僕とクリスは王位継承権を持つ者として例外的に12歳ですでにデビュー済みだが、ソフィア嬢は来月、誕生日とともにデビューする予定。僕はそれを密かに楽しみにしている。
普段はシンプルなワンピースしか着ないソフィア嬢も、きっと美しく着飾るに違いない。鬼講師からみっちり仕込まれたというダンスの腕前も、どんなものか楽しみだ。他の男達の注目を集めるかもしれないのは少し心配だけど、王子の僕が裏で手を回して牽制すれば、それで済む話だ。
加えて、当日エスコートすると思われたアランが明後日から寄宿学校に入学するため不在。
ソフィア嬢のエスコートは誰がするんだ。僕でいいんじゃないか。幼馴染であり従兄でもあるわけだから。身分だって、王子と公爵令嬢なら十分釣り合っている。
ソフィア嬢のアランに対する気持ちは、嫌という程よく知っている。彼女を無理矢理どうこうしようなんて気はさらさらない。ただせめて、社交界デビューの相手を務めるくらい、それくらい望んだっていいじゃないか。
伯父さんにそれとなく聞いてみようか。怪しまれるかな。
来月のことを考えるとついつい心が浮き足立ってしまう。
がしかし、肝心のソフィア嬢がアランの不在で心身共にやられていたら、社交界デビューどころではない。
僕の出来る範囲できちんとケアしなければ。
「明日の謁見、さぼってもいいかな」
僕がぽつりと漏らした言葉に、隣で眠そうに欠伸をしていたクリスが眉をひそめた。
「また来る気か。弱ってるところに付け入るなんて、冗談だぞ。本気にするなよ」
「だからそんなことしないって。今日の感じなら大丈夫そうだけど、やっぱり心配だから様子だけ見に来ようかなと」
「そうか」
「あ、明日は僕一人で来るよ。2人同時にさぼったら流石に大問題だからね」
嫌そうに顔をしかめるクリス。でも何を言ってももう無駄だと思ったのか、ぷいと反対側に体を傾け、やがて静かな寝息が聞こえてきた。
さてさて、帰ったらさっそく、約束したアップルパイの手配をしなければ。