5-3「平穏」
5-3「平穏」
気が付くと、ラジオからは、耳慣れた言語の放送が流れてきていた。
連邦、帝国双方のプロパガンダ放送を聞くのに飽きたらしい整備員たちは、僕ら、王国の国内放送局にチャンネルを変えた様だった。
流行りの音楽を流す、人気の放送局のチャンネルだ。
大陸全土に重く覆い被さっている戦雲などまるで感じさせない、明るくて軽快なメロディー。ギターが巧妙なテクニックでかき鳴らされ、心に染みる様な声のボーカルが、恋する若い男女の心情を描いた詩を感情たっぷりに歌い上げる。
ありふれた題材かも知れないが、いい曲だ。
楽器を扱う技術も素晴らしいし、歌声も素敵だ。お互いの距離が縮まったり、遠ざかったり、時にすれ違ったりと、複雑に絡み合う恋愛模様を歌う歌詞も、聞いているだけでドキドキする様だ。
それに、その曲を奏で、歌い上げている人々が、その曲のためにどれだけ熱心に取り組んできたのかが伝わってくるのが、何よりも素晴らしい。ラジオという機械越しにさえ伝わってくるのだから、直接聞いたら、感動はより強いだろう。
その曲が流れている間は、整備員たちも騒ぎをやめ、じっと耳を傾けていたほどだ。
放送は、そのまま、数曲、流行りの音楽を流すと、国内のニュースを流し始める。これにはあまり関心が無いのか、整備員たちはカードゲームを再開した。
ニュースは、いつもと変わりない内容だった。季節の変化を告げる様な、雪解けや、春の芽吹きを伝える内容や、フィエリテ市内で発生した交通事故の概要。動物園で生まれた動物の赤ん坊がいかに愛くるしいかとか、生活で役に立つ豆知識のコーナーなど。
内容は実に多彩で、とりとめがない。
平穏、そのものだ。
そう。平穏だ。
僕にとって、世界は大きく変わってしまったように思えるのに、世界は、何事も無かったかのように振る舞い続けている。
あの日の出来事、あの空中戦の出来事も、電波に乗って放送されたことがない。
どうやら、軍があの一件については報道管制を敷いているらしく、これは当然のことなのだが、僕の胸の内には、釈然としないものが残る。
まるで、何も起きなかったかのように、世界は動いている。
マードック曹長の死など、ありはしなかったかのように思えてしまう。
僕には、それがどうにも嫌だった。
僕にとっての世界は変わってしまったのに、その世界はというと、何事も無かったかのように、未だに、平穏の中にあるのだから。
おかしい、しっくりこない。そうは思いつつも、それでも、世界はこれまでと同じ様に回り続けているし、僕は、普段通り呼吸をし、物を見て、聞いている。
何も変わらない世界に、僕はポツンと存在している。
ふと、僕は空腹を覚え、僕もまた、感情面はどうあれ、これまでと変わらず、生きているのだということを改めて思い出した。
変わったと思っているのは、そう思わせているのは、僕の感傷に過ぎないと思い知らされる。
それは、僕にはどうすることも、忘れることも無視することもできないものだが、僕以外の誰のものでもない。
僕にとっては変わってしまったように思えても、世界は、変わらずにそこに在り続けている。
僕の暮らす王国は、相変わらず、平和を謳歌している。
そして、僕自身も、相変わらずで、生きているのだ。
変わったと思っているのは、僕の心がそう感じているというだけなのだ。
世界の中で、僕はちっぽけな人間に過ぎない。
その中で、僕は、様々なことを感じ、思いながら、生きている、大勢の中の1人に過ぎないのだ。
僕には、世界が変わってしまったように思える。だが、変わったのは、僕自身なのだ。
僕は、この変化と、どう向き合えばいいのだろうか?
その答えを出すには、まだ、しばらくはかかりそうだ。
こんな風にもっともらしく悩んでいても、僕の空腹は収まってくれたりはしない。
僕の悩みなど、どうでもいいと言いたそうに空腹を訴えかけてくる自分の身体に呆れつつ、腕時計を確認した僕は、時刻が、少し早いが、昼時であることを確認した。
この時間であれば、もう、食堂が開いているだろう。
僕は、踵を返すと、橙色の中等練習機の前を立ち去った。
僕は、未熟者とはいえ、王立空軍という組織に所属している。
他の、海軍や陸軍にはなったことがないから、どういう風にやっているのかは知らなかったが、空軍では、食事は3食、食堂で取ることになっている。
空軍の主な活動の場は飛行場で、常設の飛行場は大抵一通りの設備が整えられているから、どこの部隊でもこれは変わらない。航続距離が大きく、作戦時間が長くなる双発機の搭乗員などは、任務の都合で機上に糧食を持ち込んで食べることもあるようだが、僕の様な単発機のパイロットはそういうことは滅多にないし、僕は経験したことが無い。
食堂は、下士官、兵向けのものと、将校向けのものの2種類がある。下士官、兵向けというのは、下は二等兵から、上は曹長までを対象とした食堂で、毎日3食、任務によっては夜食や追加の配給などが無料で提供されている。将校向けというのは、下は准尉から、上は大将までが食事をする場所で、下士官、兵向けよりも設備もいいし、出てくる食事も豪華だが、有料で、そこでの食事は全て自身の給与から支払わなければならないという違いがある。
階級によってこの様な違いはあるが、貴族、平民といった出身での違いはない。その様な区別があったのは、もう、ずっと昔のことだ。
飛行中に、故障や損傷などによって不時着したり、脱出したりした場合に備えてサバイバル訓練と言って、野外で3日3晩、行軍しつつ野宿するという訓練をしたことがあったが、その時口にしたのは緊急用の味気ない携行食糧のみだった。僕は想像したことしかないが、陸軍は野外での活動が多いから、このサバイバル訓練の様に、緊急用の不味い携行食糧のみで過ごすことも多いのだろうか。そうだとすれば、僕ら空軍の食事は、大分、恵まれていると言える。
何しろ、3食、温かい食事が食べられる上、その内容も、王国の一般的な家庭で食べられているものと遜色のないものばかりなのだ。
多いのは麦粥やシチューなどで、質素なものだったが、王国の一般家庭で毎日の様に食べられているものだったし、味付けも、飽きが来ない様に日々考えられていて、シチューも具が様々に変化するので、僕は不満に思ったことは無い。
もっとも、これは、僕が育った生活環境によるものかもしれないが。都会ではまた違った食生活をしているのかもしれない。
普段は忙しく働いている人間ばかりなので、限られた空き時間で食事を済まそうと一時に人数が集まるのだが、今日は、待機という名の実質的な暇状態に置かれている人間ばかりのためか、はたまた少し早い時間に辿り着いたせいか、食堂は空いていた。
今日のメニューは、一番よく出されるメニューで、羊肉と野菜、根菜を煮込んだシチューだった。それと、パンを取りたいだけ取ることができる。
僕は木製のプレートに、深い木皿に盛られたシチューを受け取ると、パン籠からパンを2つもらい、適当な席に座った。
僕の家はそれほど宗教に厳格な家では無かったが、食事の前の祈りを欠かしたことは無い。僕の家は、多くの家畜と、畑からの恵みで成り立っているのだから、食前の祈りを行うことは当然のことだと思っている。僕と家族の命を支えてくれる存在と、神への感謝を忘れないのは、大事なことだ。
空軍での食事、その量にも味にも、僕は不満を持ったことは無い。ただ、やはり、たまに、母さんの作った料理が無性に恋しくなったりはする。
同じ材料、同じ作り方のはずなのだが、どうしてか味が違うのだ。
ここ数日は、特に、故郷の味が恋しく思える。
「よっ、ミーレス。隣、いいか? 」
僕が良く煮込まれた根菜類を咀嚼していると、ジャックがやって来た。
わざわざ聞かれるまでも無く、ジャックならばいつでも歓迎だ。僕は口の中の物を飲み込むと、隣の椅子を引いて、ジャックに座る様に勧めた。
ジャックは、僕の隣の椅子に腰かけ、簡単に食前の祈りを捧げると、さっそく食事を始める。
「うん、今日のシチューも悪くない。パンは……、まぁまぁだな」
「なるほど。やっぱり、君の家のパンの味には勝てないってことかい? 」
「そりゃぁ、まぁね。……もっとも、同じパン屋として、よそのパンの方が美味いと素直に認めるわけにもいかないんだけどさ。俺の親父は結構プライドが高いから」
大きめに千切ったパンを頬張りながら、ジャックは感慨深そうな様子だった。
「なぁ、ミーレス。お前も、実家の味が恋しくなったりするもんなのか? 」
「なるよ。……僕の場合は、母さんの作ったシチューが食べたい。ここ数日は、特に」
「だよなぁ、そうなるよなぁ、やっぱ」
ジャックは特に深刻そうな素振りを見せはしないが、彼もまた、僕と同じ様に、マードック曹長の死から少なからず影響を受けている様子だった。
僕らは、あの一件の当事者だったのだから、仕方が無いだろう。
「あたしは、魚介の煮込みが食べたいね」
そう言いつつ現れたのは、アビゲイルだった。
彼女は、僕らに特に断りを入れることもなく、それが彼女の有する当然の権利だとでも言いたそうに、ジャックの対面の座席に座ると、やや乱暴に食前の祈りを捧げ、食事を始めた。
「海から遠いってのは分かるんだけどさ、たまにはあたしみたいな南部出身者向けのメニューがあってもいいと思う訳よ。魚に貝、いい出汁が出て美味いんだよ? 」
「それは、そうなんだろうけど」
僕はアビゲイルの乱暴な、何と言うか、漢らしい食事風景に呆気に取られながら返事を返した。
いつ見ても、彼女の食事には「勢い」がある。何でも、漁の合間に短時間で食事を済ませなければならないことも多かったらしく、こういう食べ方を自然と身に着けたのだそうだ。
貧乏な家の生まれという点で、僕と彼女は共通しているが、どうやら、僕の田舎にあった、牧歌的なのんびりとした雰囲気は、彼女の故郷には無かったらしい。
パンを千切ったりせず、丸ごとシチューに突っ込み、そのまま齧りつき、もぐもぐと咀嚼して飲み込んだアビゲイルは、静かに食事を続けていた僕たちを唐突に睨みつけた。
「何だい、何だい? 男が2人そろって、しけた面並べちゃってさ。もっとしゃきっとしなよ。じゃないと、曹長に顔向けできないよ 」
アビゲイルはスプーンをジャック、次いで僕へと向け、鋭くねめつけながら叱咤する。
僕は、度々、アビゲイルには感心させられる。
恐らく、精神面では、アビゲイルが僕らの中で最も強固だろう。
「アビー、そうは言うけどさ」
感嘆している僕の隣で、パンを千切りながら、ジャックが反論する。
「人が1人、死んでるんだぜ? しかも、俺たちの眼の前でさ」
「そりゃ、あたしだってそのくらい分かってるよ。……あたしだって、マードック曹長には世話になってたんだ。というか、同期生は全員、そうだろう? あたしが言いたいのは、感傷に浸るのはいいけど、何かしないとだめだってことさ」
アビゲイルの言っていることは、理解できる。
しかし、だからと言って、僕らに何かできることがあるのだろうか。
あの一件以来、王立空軍全体に飛行禁止命令が発令されている。そのおかげで、僕らパイロットは皆、暇を持て余している。
だからこそ、僕もジャックも、感傷的になっているのだ。
気持ちのやり場も、整理のつけ方も分からないからだ。
「アビー、君の言いたいことは分かるよ。できるなら、僕だって、曹長のために何かしたいよ。けど、僕らには今、飛行禁止命令が出ているんだ。何かできることはあるのかい? 」
僕の言葉に、アビゲイルはしかめっ面を作り、呆れた様に溜息を吐いた。
それから、彼女は、僕らをきっと睨みつける。
「走ればいいだろ、走れば! 」