14-9「死闘」
14-9「死闘」
僕は、今すぐに逃げ出したかったのだが、そうすることはできなかった。
枯草色の毛並みを持つ軍用犬が、僕のわずかな動きも見逃すまいと睨みつけているからだ。
僕が動こうとした瞬間、その軍用犬は僕へ飛びかかって来るだろう。
その軍用犬は沼地に叩きつけられたせいで泥だらけで、僕と同じ様に酷い恰好だった。だが、獰猛そうな唸り声をあげながら姿勢を低くし、いつでも僕に襲いかかれる姿勢を保っているその姿からは、少しも戦意が衰えていく様子は感じられない。
よく訓練されていて、しかも賢い、良い犬だった。
僕にとって、犬というのは友人というだけではなく、大切な仕事仲間だった。羊の群れを追うのにいつも役に立ってくれたし、その高い身体能力や、僕のお願いを理解してくれる知能の高さはよく知っている。
その犬は元々の素質が優れているだけではなく、飼い主によってよく教育されている様だった。
僕は少しずつでいいから、軍用犬から遠ざかることはできないものかと考えた。
ゆっくりと動けば、相手に気づかれず、少しは距離をとれるかもしれない。
だが、僕は動くことができなかった。
1回目に噛みつかれた時は、咄嗟に沼地に軍用犬を叩きつけることで振りほどくことができたが、同じ手はもう使えないだろう。
もう1度噛みつかれたら、今度は、軍用犬はその命がつきるまで僕のことを離さないはずだった。
相手は、大型犬だ。
噛む力は強いし、体重もあるから僕の力だけで振りほどくことはできないだろう。
しかも、犬の動体視力は、人間よりもずっと優れている。聞いた話だと、犬にとっては相手の動きが、人間が目でものを見るよりもずっと遅く見えるのだという。
だし抜いて逃げ出すことは、できないと思った方が良い。
それでも、僕はじっと睨み合っている訳にはいかない。
どうやらその軍用犬だけが先行して僕に追いついて来たらしかったが、連邦軍の兵士もすぐに追いついて来るだろう。
そうなれば、僕は捕虜にされるか、その場で殺されてしまうことになる。
僕は、軍用犬に気づかれないことを祈りながらそっと足を動かし、逃げ出すための隙を作るために距離を取ろうとした。
だが、ここは沼地だった。
僕が足を置いた場所は酷くぬかるんでいて、体重をかけた瞬間、ずぶっと足が沈み込んだ。
軍用犬は、その瞬間を見逃してはくれなかった。
凶暴な声で吠え、僕を目がけて飛びかかって来る。
僕は両手を前へと突き出し、その軍用犬の前脚のつけ根を思い切りつかんだ。
噛みつかれてしまえば、簡単には振りほどけない。だから噛みつかれない様に、その軍用犬を受け止める方がいいと咄嗟に思ったからだった。
だが、相手は大型犬だ。体重が何十キロもあるし、僕は足場の悪い場所にいる。
僕はそのまま軍用犬にそのまま押し倒されるようになってしまった。
軍用犬はその全ての体重と膂力を使って、僕をねじ伏せ、噛みつこうとしている。
僕の腕を振り払おうと軍用犬は前足を激しく動かし、その爪で僕のトレンチコートが引き裂かれた。
僕の顔面に向かって何度も軍用犬の牙が迫り、僕の眼の前で何度もガチンガチンと強靭な顎が閉じられ、飛び散った唾液が僕の顔に降りかかった。
僕を取り押さえてしまった相手の軍用犬は、大きい上に力も強かった。だから、正面から跳ね除けることは難しかったし、それでは軍用犬はまたすぐに僕に飛びかかって来て、僕は逃げることができない。
その軍用犬を逆に取り押さえ、気絶させるか、殺してしまうなりしてしまうしかない。
僕は、犬が好きだった。
友人としても、仕事仲間としても、大切な存在だ。
犬は賢いし愛嬌もあるし、僕の気持ちに気がついて心配してくれることだってある。
もちろん、他の動物にもそれぞれにいいところがたくさんあるのだが、犬は僕にとって一番馴染みのある動物の1つだったし、たくさんの良い思い出がある。
だが、僕には躊躇している余裕は無かった。
僕は自分の体重を使って軍用犬の前足をつかんだまま横に倒れこみ、身体を半回転させることで、軍用犬と僕の体勢を入れ替えた。
さっきまでは僕が地面側にいて、軍用犬が上側にいたが、今度は僕の方が上側だ。
軍用犬は激しく暴れ、後ろ足などで僕の腹部を蹴ったりした。かなり痛かったが、そんなことで怯んでいる場合では無かった。
今度は僕の方が上側に来ているので、僕の体重をうまく使うことができる。僕は片手だけで軍用犬を取り押さえて横倒しにし、その背中の側に回り込んだ。
人間もそうだったが、犬も背中の側に回り込まれると弱い。手足がいくら強靭であろうと前の方にしか動かせないし、その鋭い牙も爪も真後ろへは向けられない。
僕は軍用犬の背中を取ると、その首にあいている方の腕を巻きつけ、僕の全体重を使って締め上げる。
軍用犬は、がふ、がふ、と苦しそうな呼吸を繰り返し、今度は、僕の拘束から逃れるために全力で暴れただす。
相変わらず凄い力だったから、僕は必死になって軍用犬を取り押さえ続けた。
軍用犬も必死だったが、僕だって、必死だった。
だが、苦しそうなその犬の様子に、僕は今すぐにこんなことをやめたいという衝動にかられた
この軍用犬は確かに僕へと襲いかかってきたが、それは、その軍用犬が自身の主人に対して忠実だからだ。
軍用犬はその主人から、僕を探し出す様に命じられ、その優秀な嗅覚と賢さを用いて、見事に僕のことを探し出した。
そこに、僕への悪意や敵意は一切、無い。
僕とその軍用犬の間にはこんな風にお互い命を賭けて戦う必要など無いはずだった。
だが、その軍用犬の主人と僕とは、連邦と王国という、戦争状態にある2つの勢力に属している敵同士だった。
本来、僕らがこんな風に苦しめ合う必要など無いのに、戦争が僕らにそうさせている。
もっと言ってしまえば、戦争さえ無ければ、この忠実で優秀な軍用犬の主人と僕とが敵同士である必要も無いということだった。
僕らの間に、個人的な恨みや憎しみは、そもそも存在し無いのだから。
僕は、今すぐにこの犬を放してやりたかった。
その犬は、僕ら、人間同士の争いごとに巻き込まれてしまっただけだからだ。
だが、僕にはそんな選択肢は用意されていない。
やがて、軍用犬は口から泡を吐き出し始めた。
空気を求めて喘ぐように口が開け閉めされ、憐れみを乞う様な悲痛な声をあげる。
僕に抵抗する力も、徐々に弱まり、激しかった手足の動きが緩慢なものになっていく。
奇妙な、異国の言葉の叫び声が聞こえたのは、もう少しで軍用犬が完全に意識を失おうとしている瞬間だった。
僕は反射的に犬から離れて距離を取る。
全身を震わされる様な、まるで気の狂った怪物があげる様な叫び声だった。
だが、この森に、そんな化け物みたいな動物はいない。
それは、人間の叫び声だと考えるしか無かった
そして、人間が叫んでいるということは、それは連邦軍の兵士に違いなく、そうであるなら、その奇妙で恐ろしい叫び声は、僕に対して攻撃を加えようという意思から発せられているものに違いなかった。
軍用犬に少し遅れてはいたが、連邦軍の兵士もまた、とうとう僕に追いついて来たのだ。
軍用犬から離れた僕は、僕の身体のすぐ近くで鋭く棒のようなものが振るわれる、風を切る音を聞いた。
反射的に軍用犬から離れた僕の行動は、間違っていなかった様だ。
少し距離を取って立ち上がった僕の視界に、小柄な体躯を持つ人影の姿が映る。
思った通り、連邦軍の兵士だ。
連邦軍の軍服を身につけ、不思議なことに防寒着の類は身に着けていない。しかも、銃も持っていなかった。
代わりに、森の中で拾ったらしい、長さが1メートルほどもある細長い枝を両手で構えていた。枝がまるで剣の様だ。
僕はその構えを知らなかったが、どうにも、昔の剣士が剣を振るうのを子供が真似して遊んでいるような雰囲気では無かった。
きちんとした理論と実践による裏づけのある、本物の剣のあつかい方を知っていそうな、そんな迫力のある構え方だった。
僕は、その構え方に圧倒されながら、さらに、月明かりに照らされたその兵士の顔立ちを見て、驚かされた。
その兵士は、少年だった。
僕だって未成年だったが、その少年はぼくよりももっと若い。
まだ幼ささえ残っている様な、13歳か、14歳くらいの少年兵だった。
少年兵は、僕に向かって木の枝を構えながら、彼の足元でよろよろと立ち上がった軍用犬に、何かを鋭い口調で命じた。
僕には分からない異国の言葉だったが、どうやら、逃げろ、とか、隠れていろ、とか、そんな風な意味の言葉であったらしい。
軍用犬はそれに答えて吠えるほどの気力も残ってはいないようで、ふらふらとした足取りで森の中へと逃げて行った。
僕は、僕を鋭く睨みつける少年兵を睨み返しながら、腰の後ろに手を回し、ナイフの柄に手をかける。
その瞬間、少年兵が再び叫び声を上げ、僕へ向かって木の枝を振り上げた。
ここで出てくる少年兵は、示現流に属する流派の剣法の使い手(架空の世界なので「ぽいもの」)です。
ただし、年齢がまだ若すぎることもあり、その剣はまだまだ未熟で、その未熟さゆえに一撃目で主人公を仕留めることに失敗しています。(達人だったら主人公はなすすべもなくやられてしまって物語にならないです)