真っ紅な嘘
「ねぇ、私、秋が見たいわ」
私は窓もない小部屋でいつも食事を運んでくる男にそう告げた。
「秋を見たい、ですか。それはまた難題ですね」
男は背は高いが痩せていて、態度も柔和などこか頼りにならない印象を覚えた。
この部屋から出たことのない私の秋が見たいなんて願望を、とてもじゃないが叶えられるとは思えない。
でも、口に出さずにはいられなかった。
「そう、秋よ。噂によるととっても綺麗だと言うじゃないですか、是非とも見てみたいわ」
男は部屋の中央にある丸テーブルに食事を運び終えると、ちらりと右腕の腕時計を見た。あまり戻るのが遅いとドヤされるのかもしれない。
「夏や、冬、春よりも秋ですか?」
「そんなものもあるの? 私には違いが分からないわ。でも、死ぬ前に一度は見たいものは秋と私は決めたわ」
「因みに秋がどんなものかご存じで?」
「知らないわ。こんな部屋では知りようがないじゃない。ただ、綺麗とだけ知っているの」
この男の前の給仕の女がそう溢していたのを聞いたことがある。
詳しく聞こうとしたが、その時ははぐらかされてしまった。
「そうですか、では教えておきましょう。秋とはとても怖いものです。そこらじゅうが血の海に変わり、頭の上に針のついたボールが落ちて来たり、黄色に変色した木の下には異臭を放つ木の実が散乱しているのです」
私は男の冗談にクスクスと笑った。
「あなたはいつもそうやって嘘をつくのね」
男は眉をひそめて心外そうな顔をする。
「私が嘘をついたことがありましたか?」
「両の指では足りないほどあるわ」
この男は悪い男だ。私が世界を、この部屋以外で起きることを知らないからって、いつも適当な嘘をついて私をからかう。
男はまた腕時計をみた。
多分もう時間だ。
「それではおやすみなさい」
男はそう告げてこの部屋の唯一の出入り口である扉に手を掛ける。
朝、朝食を運び、夜に朝の食器を片付け、夕食を運ぶ。そして、夕食の食器を朝片付け朝食を運ぶ。
食事は匂いの残りにくいものを選んでいるようだ。
一日に二度、食事を運んでくるこの男との会話だけが私の娯楽だ。
「ありがとう。私、あなた好きよ。例え嘘でも私と会話してくれるんですもの」
今まで何人もの食事を運んでくる人がいたが、基本的に私とは会話をしなかった。
私が外の世界に興味を持たないように極力会話を制限しているのだろう。
「……私は嘘はつきませんよ」
「では、いつか私に外の世界を見せてくれないかしら?」
私は意地悪を言った。
普通なら駄目だと答える。
でも、この男は嘘吐きだ。
「いいですとも」
そうやって、甘い嘘をつくに決まっていた。
男がいなくなり、私は真っ白なベッドにつく。
布団を被れば、ひとりでに部屋の灯りが消える。
どういった仕組みなのかは知らないけれど、便利だから気にしない。
「起きてください」
私は誰かに体を揺すられた。
人に起こしてもらうのは初めての経験だ。
いつもは私が起きた後に、あの男が朝食を運びにやってくるのに。
私は瞼を擦り、意識をはっきりとさせていく。
私の眼前にはあの男がいた。
男は「静かに」と人差し指を口の前に立てる。
「今から外に出ます。あなたは私の手を握ったまま目を瞑っていてください」
そう言って差し出された男の手を素直に握り目をギュッと閉じる。
目を瞑ったせいか、男の手の感触に意識が集中して身体がポカポカする。
「着きました。目を開けてください」
男の指示通り、目を開けるとそこは丘の上だった。
辺り一面を見渡せる丘。
「私は嘘はつきません。ご覧ください。まるで血の海でしょ」
「そうね。真っ赤だわ。でも、血とは違う。胸が温かくなる紅さ」
「唐紅と言うそうです」
「……そう」
私は零れる息と一緒に短い言葉を返すだけで精一杯だった。
だって、この景色を今目に焼き付けておくことに集中しなくてはいけないんですもの。
世界には、外の世界にはこんな綺麗な色があるのね。
信じられる?
樹々が紅いのだ。
丘から見下ろす樹々が紅く、所々に混じった黄金色が最高のアクセントとなり景色を完成させている。
太陽の光を浴びてキラキラと光るのは朝露のせいだろうか、その光はどんな宝石にも負けまい。
一面に敷き詰められた紅い絨毯は、私の心をじんわりと温かくする。
「紅い樹々なんてあるのね」
「紅葉ですね。山の紅葉も美しいですが、人の手で整備されたブドウ畑の紅葉も負けず劣らずですよ」
「そう、ぜひ見てみたいわ」
私に与えられた最低限度の知識では知らないことだらけだ。
男はちらりと右手の腕時計を見る。
「髪が伸びられましたね。それは、またの機会にいたしましょう」
「またなんてあるの?」
「ありますよ」
「そう、あなたは嘘はつかないんだったわね」
「はい」
「あなたが連れてきてくれるの?」
「もちろんです」
最後のその言葉に満足し、私は目を閉じた。
朝食を運んできたのは女だった。
私と背丈のあまり変わらない髪の短い女。
「いつもの男はどうしたの?」
「死にました」
あまりもの流暢な物言いに自分の耳を疑った。
「何故?」
「あなたを外に連れ出したのです。本来なら私達の首の一つでは補えるものではありませんよ」
「そう」
私は伸びた髪を手で梳かす。
「髪も背丈も随分伸びられましたね。だから、この部屋から出てはいけないのです。知っているでしょう?」
「時間の緩やかなこの部屋で一生何にも触れず生きていく。それは本当に生きているのかしら?」
「それは私が意見することではありません」
また、これだ。
私と会話する気がない。
意思を疎通しようとしないのだ。
彼ら彼女らは、思考が停止している。
あの男なら、あの男なら、なんと答えただろう。
配膳が終わると、女は私の前に一枚の紙ナフキンを差し出した。
私は女の顔を見るが、そこに感情は読み取れない。
「あれの最後の頼みでした。これをあなたに」
紙ナフキンを開くと一枚の紅い葉が入っていた。
男が教えてくれた。
これは紅葉だ。
「この部屋でなら、そう簡単に朽ちることはないでしょう。大事にしてあげてください」
女はそう言って、昨日の夕食の食器を持って、扉に手をかけた。
「あれは、兄でした」
そう言って、女は部屋から出ていった。
私は一枚の紅葉を優しく胸に抱いた。
「やっぱり嘘吐きね」
一緒にブドウ畑の紅葉を見ると約束したのに、悪い男だ。
しかし、言葉とは裏腹に私は一つの覚悟を決めた。
いつかこの部屋を出よう。
そして、自分の力でブドウ畑の紅葉を見るんだ。
あの男の真っ紅な嘘の半分を真実に変える為に。