第38話 安息の地から飛び出して
あまりにも重く感じる体を、引きずるようにして部屋を出る。
自分に時間が残されていない。その事実は、あの夢の中で身にしみて感じた。術がどうとか、斧男は他にも何か口にしていたがそのことについて考えている余裕はない。
その余裕がないのだが、少なくとも急いでこの町を出なければいけないのだが、その緊張感が体に重くのしかかり、前に進むことすら億劫になってしまう。
このまま部屋から出なければ、何事も起こらずに、何事も止まったままになるんじゃないかと、そんな淡い希望を抱いてしまうほどだ。
(起きるって言っちゃったもんなー)
寝台の上に腰掛けたまま、どれだけの時間を過ごしただろうか。実際はそんなに大げさに言うほどの時間は経っていないはずだ。
けれども、階下で待っているリラの魂がだんだんと乱れ始め、じっとしていられなくなった彼女が、遂には階段に再び足をかけるであろうところまでくるとそうはいかなくなる。
重い頭と、肩と、背中と、腰とを持ち上げて部屋を出る。
心の中で渦巻く焦りと恐怖、そして体中を襲う倦怠感とが混ざりあい、自分と言う存在すらも見失いそうだ。
「今行きますよー」
廊下に出るや否や、試しに大きな声を出してみる。
リラの動きは止まったが、それで自分の中で何かが変わるなんてことはなかった。恐怖は我が物顔で居座り、焦燥感が心の中を忙しなく空回りしている。
自分、と言う存在すら、分からなくなってしまいそうだ。
「遅い!」
視えていたことではあったが、店の中にはティグ以外の、薬屋の面々が勢揃いしていた。
起床の報告から部屋を出るまで、結構な時間が掛かっていた。そのことにリラは怒り、薬頭は同意するように頷いている。
「ティグさん。なんか顔色悪いけど大丈夫か?」
「はい…」
誰の目から見ても大丈夫ではないだろう。
「よし坊主。大丈夫じゃなさそうってのは、まぁ、察した。それでもここで進まなきゃいけないのは分かってほしい」
「…はい」
一刻も早く逃げなければいけない。
そのことに関しては、昨晩の夢を経て共通認識となった。
問題なのは、恐怖心が返ってその身を縮こませているということだ。
「よし。ここを出て左に真っ直ぐ進んでいけ。角を2つ過ぎて3つ目の角をそのまま左に行くんだ。ほっそい路地だが、その先にケドウェルルって変な名前の酒場がある」
ティグの返事を受ける間も無く街の地図を広げ、森を抜けるための仲間と待ち合わせを行う場所を示す。
「お前と森を抜ける仲間は、この黄色い布をどっかに身につけてるはずだ。店の前に着いたら、ポケットからでも垂らしとけ」
薬頭が手渡してきたのは、なんの変哲もない、ただ黄色く染められただけの布だった。
一通りの打ち合わせを終え、いよいよ旅立つために部屋の荷物をまとめる。
そもそも旅人の身であり、逃げた先で辿り着いたのがこの薬屋だ。まとめるほどの荷物は無く、鞄は肩にかける必要がないので片手で事が済んでしまう。
(仲間…)
現状、なるべく早くこの街を抜けたいという考えはあるが、その仲間の中にあの斧男、もしくはその仲間が紛れている可能性もある分、1人で逃げ出したいという考えも持っている。
森の中ではいつ命を落っことしても不思議ではない。そんな中で1人で対処できるものには限界があり、誰かの手を借りなければいけないのは明白だ。1人だけでなんとかできるのは、一握りの内、ほんの一つまみの存在だけだ。
互いに命を預ける以上、仲間という言葉に拘るのも頷ける。
片付けと言えるほど片付ける必要はなかったが、やれる事を終えて再び店の方へと戻るなり、なにやら様々な道具を鞄に詰めている3人が目に入った。背負うために作られた鞄であり、ティグが持っているものよりは、遥かに収納力のある物だろう。
「ティグさん。悪いけどそっちのやつじゃなくて、こっちの鞄で行って欲しいんだよね」
「詳しい道具の使い方とか、教える時間がないのが惜しいけど、詳しい人が同行者にいるって話だし、これでも必要最低限で抑えたつもりだからよろしく」
「えぇ…」
底なしの森を突破するにあたって必要な道具が揃えられているのだろう。あの森のことをほとんど知らないティグにとって、とてもありがたいことではある。ありがたいはずなのだが。
(服装とか、変えたくないけどな…)
鞄を変えることにティグが及び腰なのは、服装を少し変えるだけで霊化への影響が出てしまうからだ。逆に言えば、身に付ける装備を含めて自分だと意識できれば、霊化の影響が及ぶ範囲はその装備にも及ぶ。
だからこそ、鞄を変えることにも少し抵抗を覚えてしまう。
しかし、リラたちに言わせればこの鞄に詰め込まれた道具は、どれを取っても絶対に必要だと言える物ばかりだ。ここで持って行かせないという選択肢は存在しない。
「どんな理由があっても、持ってってもらうからね!」
「断りませんって」
「その鞄がお気に入りなら、入れる隙間くらいは作るけど…」
「そこまでしなても大丈夫ですから!」
もちろんティグに断るつもりはない。
最終的にという話だが。
「夜の間、お前が何を考えていたかを聞いている暇はない」
ティグの不安を少しでも払拭するため、彼女たちは場を和ませようとしてくれていた。しかし、もうそんな時間すら残されていないようだ。
昨日までのティグは、この街を出て、底なしの森の先を目指すことに否定的だった。
しかし、夜が明けてみれば何かが変わっていた。この街を出る覚悟ができた、というよりもそうせざるを得なくなったという印象を薬頭は抱いていた。
「生きるために信じろ。そうだな、自分が利用するって気持ちでいけ」
「…はい」
「向こうの人たちにこの店のこと、よろしくね」
「俺でもどうにかなったんだ。ティグさんならどうにでもなるさ」
未だ気持ちの整理はつかない。
ただ、最後に彼らの声を聞くことで、ざわざわとしていた自分の心が、少し落ち着き冷静になれた。
「本当に、ありがとうございました」
「うん。いってらっしゃい」
「……!」
いってらっしゃい。その言葉は帰ってくる前提で言うものだ。
その言葉がすとんとティグの心に落ち、重石のようになってその魂と体を繫ぎ止める。
「はい」
元気良く、とはいかなくとも、その言葉には確かな覚悟が宿っていた。
空に浮かぶ太陽は、すっかり頭の真上で輝いている。朝食を食べる暇のなかったティグだが、そんな時間すらも過ぎてしまったようだ。
よくよく考えてみれば、空腹を感じる気がする。
薬屋を出てからしばらくは一直線だ。気恥ずかしさから、振り返ることこそはしなかった。それでも、この半年間ですっかり上達した霊視があれば、3人がいつまでも見送っていくれていることはすぐに分かった。
彼が今まで過ごした時間を視ると、およそ人が普通に暮らしていく中で比較にならないほど存在の危機に晒されている。今現在も殺害予告を出されたばかりだ。
自惚れと取られても仕様がないが、ティグ自身も自分ではどうにもならない出来事が多過ぎて、「どうして自分ばかりが」という考えばかりが頭に浮かぶ。
しかし、そんな中でも、ティグは自分が縁に恵まれているのだと気が付くべきだ。
得体の知れない、誰に追われているかも分からないティグを匿ってくれた薬屋。
たかが紙切れ1枚で、1ネールも払わずに客と認めてくれた、宿の女将たち。
もっと言えば、ティグのことを拾ってくれたダジの存在。
これまでの出会いが、彼をここまで繋ぎ止め、そして彼の背をここまで押してきてくれたのだろう。
今回もまた、その正体を知らないまま、今を生き抜くために体だけでもと、前へ進んでいく。
◇ーーーー◆
決して人の踏み入らぬ森の奥。そこには、森と比べると小さな、しかし一個人の住居としては、中々に豪勢な一軒家が建っていた。
そこには、1人の少女と少年が静かに暮らしている、はずであった。
しかし、家の中は閑散としていて、かつて少女の定位置だった椅子には人がいた形跡すら残っていない。その対面には宝石のような瞳を輝かせる少年が、ポツンと座っているだけ。
「もう1年。そろそろ諦めるころなんじゃないかな~」
この家から少女の存在が消えてから、はや1年が経っている。少年からしてみれば、彼女が目の届くところから離れるのは困るし、それを手助けしているササという存在は厄介なことこの上ない。
「ま、実際はどうにかなったように見えてるだけだし、これで完全に折れてくれるならそれでいいんだけど…」
彼にとって、その少女が離れることは困る。困りはするが、その結果、彼女の心が折れてくれるのならば。望み通りの展開になるのなら、1年や2年離れたところで痛手にもならない。
むしろ、感謝の念すら覚えるだろう。
「どれだけ頑張ったところで、どれだけ取り繕ったところで、何も変わりやしないのに。わざわざ危険な道を歩む必要も、ないんだけどなぁ」
少年とて、何も彼女に苦しんで欲しいわけではない。苦しむくらいなら歩むのをやめたほうが良いと、そう考えているだけだ。そして事実、誰も彼もがありのままを受け入れることができれば、今回は誰も損をしないはずだった。
それでも、少女がここから抜け出したのには、そうさせるだけの理由があるはずなのだが。
「あの森は、人の領域じゃないのに」
「あの森で、一体誰が幸せになったって言うんだ」
その宝石のような深緑の瞳を輝かせ、暗く、暗く呟いた。




