第32話 猪と森と
「……」
何処とも知らぬ森の奥地。
そこには滅多に人が訪れず、獣すらあまり寄り付かない。
そんな森の最深部には、一つの家が建っている。
小さ過ぎず、決して大きいわけではない。
一軒家としては、一般的な、ごく普通の家と言えるだろう。
人が滅多に踏み入らない森の奥地に、その様な家が建っているのだから、不自然極まりない。
「どうかした?」
当然のことながら、その家には住人がいる。家なのだからそれは当たり前だ。
その家の住人である少年が、真紅の、まるで宝石のような眼差しを同居人へと向ける。
「……」
その少年に対し、同居人である少女は何も言わなかった。
その髪を揺らし、ふるふると首を振るだけだ。
雪のように真っ白な、いや、雪よりも白く、この世の空白と思わせるかのように白い髪を揺らして。
「何でもないならいいけど」
少年の言葉に、彼女は何も言わずに頷くだけ。
「ちょっと、外に行ってくるね。ま、誰も入って来やしないけど、留守番よろしくー」
ひらひらと手を振って、気怠げに少年を送る白の少女。
パタン、と扉が閉まるとその手を止め、先ほどからみつめつづけている一点にその手を伸ばす。
その手のひらに、かつてあったものを思い出しながら。
叶うことはないかもしれない僅かな希望を抱きながら。
「…!」
少女が突然立ち上がる。視線は変わらず一点を見つめている。
しかし、その目は飛び出さんばかりに見開かれていた。
(どうしてどうしてどうしてどうして)
扉を無視して既に開いていた窓から飛び出す。
息を切らして森の中を走り抜ける。
今自分がどこにいるのか、どうしてこんな森に住んでいるのか。
その理由すら忘れて。
◇――――◆
何が起きているか整理がついていない。
それでも、何かが駄目だ、ということは本能ながらに理解できた。
死を察した。
(霊化……できない!)
霊化をしなければ、という考えは咄嗟に出てきた。
そしてそれは、命令となって全身を走った。
が、その一歩先に届かない。
ティグに向かって伸びる顎が開かれる。
縦に伸びたその口は、人の頭など一噛みで食いちぎれるであろう大きさだ。
死を覚悟したその瞬間、何かの衝撃を受け蜥蜴の顎がぶれた。その顎には白っぽく映る何か、片刃の剣が突き刺さっていた。
「ッラァ!」
ティグの跳んだ先に蜥蜴がいることをダンは気づくことができた。
むしろ、気づいていたのだ。しかしダンもまた、ティグの察知能力を過信していたようだ。
「ダンさん!」
一番初めにティグへと襲いかかってきた何かが、ダンへと牙を向けドスドスと地面を揺らし、何かがその巨体をもって突進する。
その突進に対してダンが空いている左手を向けると、そこには1つの火の玉が激しく揺らめいていた。
「ちょっとは待ってほしいよね!維持するだけでも、一苦労何だからさッ!」
暴れる蜥蜴から剣を引き抜き、その勢いのまま左手を突き出す。
命が危険にさらされるほどの傷を負わされた蜥蜴は、逆上するどころか、反対方向へと逃げ出し、突き出された左手から放たれた火球は、襲い来る牙の口内へ一直線に飛んでいく。
「ウゴゥゥゥ」
かなりの巨体だ。
方向転換は愚か、急に止まることもできないようだ。
打ち出された火球はそのまま襲撃者の口の中へ放り込まれた。
突然入り込んできた熱に驚いたようで、咳をするように必死に息を吐いている。
(何だ今の…)
火球が飛んでいく最中、その火に照らされ、襲撃者の顔が見えた。
明らかに牙と思われるものがあり、まっすぐに突進してきたその行動から、獣であろうことは予測できた。
しかし、ただの獣とは呼び難い容姿をしていた。
「フオゥ、ゴォゥ」
突き出した大きな鼻、それを見ても尚「巨大な」という言葉が付く口と牙。
鼻周り、口周りからは凄まじい毛量の毛が生えていて、目がどこにあるのかさっぱり分からない。もしかしたら無い可能性もある。
そんな猪もどきだった。
すると、ダンが腰に下げた包みから何かを取り出す。
「ティグさん魔術届くか⁉︎」
「届きます!」
そのまま力一杯猪もどき目掛けて投げつける。
魔術の射程範囲を聞かれ、その後のダンの行動で何をしたいのか察しはついていた。
「やれ!」
届くとは言ったものの、少しの不安要素はあった。
霊視や霊化が上手く機能しなかった時みたいに、魔術も何か不都合が起きるのではないかという不安。
しかし、魔術を使ってみればいつも通りに、いつも通りの火柱が生まれる。
包み込むような形を手で作れば、一瞬で火が放射される。
小さな轟音と共に獣目掛けて走る火柱は、猪もどきに到達すると、その巨体を覆い尽くすように這い回る。
ただ、猪もどきには効果が出ていないようだ。身じろぎする仕草こそ見せるが、身構えてこちらへ走りだそうとしている。
「はっ。相変わらずどこまでも脳筋なこって」
が、走り出す前ににその背中で何かが破裂した。
その衝撃に思わず仰け反り、走り出す瞬間だったために耐えきれず、まるで潰されるように地面に押し付けられる。
「魔術維持!」
「はい!」
猪もどきの背中が破裂すると同時に、側面から少し大回り気味にダンが回り込む。
「解け!」
合図を受け、手の平を閉じれば火柱が消え失せる。
火が出切った瞬間、入れ替わるように、今も尚呻き続ける猪もどきの頭を剣で貫く。
しばらくの間、激しくのたうち回った後に力なく呻き声を上げ、その動きを止めた。
「は、はぁ。っぶねぇ」
最後の最後、猪もどきが暴れた衝撃で、ダンは弾き飛ばされていた。
幸いだったことは、力の限り剣は手放さずにいたことで、ダンと一緒に頭に刺さった剣も抜けた。
「とりあえず、すぐにここを離れよう」
「えっと、この猪っぽいやつ、このまんまでいいんですか?」
「こんなもん持ってけないだろ」
解体して運ぶにせよ、この巨体から剥ぎ取れるものを持って帰るのは難しい。
ましてや依頼されたタシラジの採取も済んでいなければ、帰りにはあの花畑を通らなければいけない。
「ここの奴らは鼻が効く。死体の方は勝手に食いに来るのがいるから、処理は気にすんな」
「あ、そういうことですか」
「そ。さっきの蜥蜴も多分もう食われてるだろ。とにかくその寄って来るのが厄介だから。あー、牙の先っちょは持って帰るか」
そう言うと、斧を取り出して剥き出しになっている牙目掛けて振り下ろした。
「行くぞ。この森じゃあ立ち止まれば死ぬからな」
「はい」
◆ーーーー◇
少女が目を覚ますと、映り込んでくるのは宝石のように透き通った目だ。
少しの間、「はて、何をしていたのだろうか」と少女は考えを巡らせる。
「何やってるんだよ。森を抜けるなんてそんなに自殺したかったの?」
森を抜ける。
その言葉に先ほどまでの事態を思い出したのか、飛び起きてまたもや窓から飛び出そうとする。
「ちょっと待て!さっきの二の舞になるだろ!」
少年の必死の訴えに断腸の思いで踏み止まる。
しかし、その目には抑えきれない焦りの色が見えていた。
正座させられているために動きは大人しいが、肩が小刻みに震え、手綱を手放せばこの獣は野に放たれることとなるだろう。
そしてまた1人で倒れるのだから世話が焼ける。
「あのね。どれだけその魂に負担がかかってるか自覚してないでしょ。鏡見てきてごらんん」
少年の言葉に怪訝そうな顔を浮かべると、大急ぎで洗面所へと向かう。
「…!」
「ちょっとは自覚してくれたかな」
自覚どころか、少女の顔には深刻を通り越して、絶望の表情を浮かべている。
今度はあまりの衝撃に肩を震わせる始末だ。
「自業自得なんだけどさ。あれほどの純白だった髪が、一回の結界破りでこうも変わるんだ。こっちも肝を冷やされたよ。反省してね?」
少年の言葉もあまり耳を通らなかった。
へなへなと力なく座り込んでしまう。
「………」
そんな少女の様子を見兼ねた少年は、意を決したように口を開いた。
「今度、ササが来るよ。あんましこういうことは、僕が言うべきじゃないんだろうけどさ。そんなになるまで心配するなら、自分でなんとかしたら?」
絶望一色だった彼女の顔に、僅かに色が生まれる。
振り向き、背後の少年へと向ける眼差しは驚きに満ちていた。
「僕だって鬼じゃなけりゃ、それこそ人形じゃないんだ。ちょっとくらいはね?ほら、ササならなんとかしてくれるんじゃない?」
人のものとは思えないほど綺麗で、宝石のように輝く眼差しを向けて。
「それで君の心が折れてくれるなら、こっちとしても大歓迎だからさ」
その言葉を隠そうとする様子はなく、それでも「折れてくれれば」という本音は隠して。
そういえば亥年ですね




