榊、ドラゴン狩りに行く
冒険者見習いとなった榊と環は、門番の男に見送られて再び町の外に出た。
相変わらず鬱蒼と茂る山は深く、落ち葉と木肌で茶色が濃い。門の外に出てすぐ眼前に急峻な上り坂が迫り、青空にも黒く山峰が噛みついている光景はかなりの閉塞感があった。
「では、山を登りましょう」
榊が言い出して環はうなずき損ねた。
記憶をたどるように首をひねって、やはり聞き間違いではないと確認して榊を振り返る。
「下水は街の周りと言っておったじゃろ?」
「ゴブリンは後で片付けます。環様はドラゴンを野放しにするのは嫌だとお思いなのでしょう? であれば、先にそちらを対処しましょう」
「いやいや、あの娘が言っておったじゃろ。戦闘を主業とする冒険者が来ると。おぬしは現代日本人で、戦闘経験などないのだろう」
戦闘経験どころか武道の経験さえ体育の授業で止まっている榊は、まるで臆さない堂々とした態度でかぶりを振る。
「私のことはよいのです。環様、あなたの御心に正直にお答えください。このままドラゴンを放置していいと思われますか?」
「それはよくないと思うぞ」
「では、そのようにいたしましょう」
当然のようにうなずき、歩き出そうとする榊の袖を環は慌てて捕まえた。
「待て、待て! そういう話ではない! わらわはできないことをやらせるつもりなど……」
「環様」
榊は厳かに言った。
「大事なのは、できるかできないかではありません。やるか、やらないかです」
「お、おう……?」
「では行きましょう」
穏やかに、しかし決然と榊は山に踏み入っていく。戦闘どころか喧嘩すらろくに経験のない篤信家の足取りは確信に満ち溢れていた。
薄々おかしな流れに気づいていながらも、環は勢いで丸め込まれてついていく。まだまだ経験の浅い未熟な神だった。
-§-
尾根を二つ三つ、超えた先。
すんと鼻が鳴る。
環は代わり映えしない木立と斜面の連続に視線を巡らせる。
「本当にこんなところにおるのかの? 街を襲いかねないとかいう」
環の声が途絶えた。榊が鋭く手のひらを向けたからだ。
油断なく峰の向こうを睨みつける榊の視線を追って、環は気づいた。
木の葉が揺れている。
葉ずれの音が大きくなる。
山の峰を超えて現れたそれ。
牡牛にも似た角を冠に戴き、伸びる鼻先は鰐のように細る。
長く伸びやかな首にそろう鱗は鈍い光沢を放ち、腐葉土を重たくつかむ四つ足の指には杭のような爪が生えている。
脅威を見上げる榊に気づいて、縦に裂けた瞳孔を細めた。
ふしゅうと呼気に可燃性の臭気が交じる。
榊が表情を変えずに言う。
「どうやら本当にいたようです」
あんぐりとドラゴンを見上げていた環が我に返った。
「おおお、まじか! マジでおるのか! でかいな!? 榊、これ本当になんとかできるのか? おぬし、さっきまで戦争とは縁のない現代日本人じゃったろ!?」
榊の袖をつかんでドラゴンの大きさに尻込みする環。小柄な彼女など食休めにペロリと丸呑みされてしまいそうだ。
対し、日本人は涼しい顔で落ち着いている。
「環様、危険ですので下がってお待ちください」
「い、いや、わらわも手伝うぞ。明らかに手に余るじゃろ」
「なりません」
榊は敵から目を離し、環を正面から見つめた。
「神が自ら手を下すことは、とても重大な意味を持つのです。軽々に御手を振るってはなりません」
ポカンと口を開けて榊を見上げる。開いていた口が動いた。
「おぬし……意外としっかり考えておるのじゃな……?」
榊は薄く微笑をにじませる。
「あなたを善き神にすることが、信徒たる私の使命ですので」
説かれ、環は重々しく口を引き結んだ。
ドラゴンを見上げる。
環の神気を嗅ぎ取ったか、若いドラゴンは珍しそうに二人を窺っている。神罰を下すべき邪悪さを持っているようには見えない。
すう、と息を吸って、環はうなずく。
「相分かった。では任す。が、危なくなったら手を出すからな」
「ご自重ください、と申し添えておきましょう――失礼します」
直後、榊は環を押し抱いて跳んだ。
空を噛むドラゴンの鼻先を翻るジャケットが叩き、榊の体は十メートルも後方まで跳ぶ。
「おおお? あれ? おぬし日本人じゃなかったのか?」
「恐縮です」
木立の影に丁寧に環を下ろし、榊は非礼を詫びるように頭を下げた。
顔を上げて、不敵に笑う。
「環様の信徒になって以来、身体が軽いのです」
跳ぶ。
身長の三倍も高く、ひと跳びで距離を詰めた榊はドラゴンの鼻先を蹴っ飛ばした。肉を打つ重たい音が森を貫く。
大きくよろめいたドラゴンが地面を鳴らし、榊はその前に着地した。
だが、ドラゴンは痛がっていない。
仰け反らせた顎を沈め、榊に牙を剥く。
機敏に跳び退り、空中で顎を蹴り上げた。反撃というより、足場にして距離を稼ぐ蹴り。
大きく飛び退いた榊は、ドラゴンが顎を上げた内懐に取って返し、二、三の殴打を加える。足を止めず再び離脱。地面を叩くドラゴンの爪は体躯の大きさだけで破壊的な勢いを持つ。
飛び散る土をすり抜けて、右に左に、翻弄しながら打ちかかる。
「危ない! うひぃ、おぁっ! さかっ、ひぃぃ! ああっ!」
はらはらと手に汗握って榊の戦いを見守る少女神は一挙手一投足に身悶えした。尻尾が袴に縮こまっている。
相手は見上げるばかりの巨躯だ。かすめるだけで榊の体など吹き飛ばしてしまうだろう。一歩間違えば大惨事だ。
綱渡りでありながら、互角に渡り合う姿に唾を飲んだ。
「これはもしや、行けるのでは……!?」
反面、榊の表情は渋い。
榊は戦いの素人だ。武芸の心得もない。ゆえに戦闘に足る膂力を得られても、どのように加えれば打撃になるか、またどこに打ち込めば痛撃になるか、その知識と技術に乏しかった。
打ちかかるたびに手応えは軽く、当たりの弱さは否めない。
だからこそ、均衡の崩壊は必然だった。
腐葉土に着地した榊の靴底が滑る。
「しまっ……!」
榊は瞠目し、態勢を崩しながら見上げる。
ドラゴンの顎。榊の体に牙が迫り、
紙一重、
榊の蹴りが牙を打った。かみ合わされる牙から榊の体は間一髪で逃れる。だが、ドラゴンの巨大さはそれ以上だった。
勢い余った鼻先が榊の胴を打ち、吹き飛ばす。
ピンボールのように幹に二度跳ね返って、土をまき散らしながら墜落した。
「榊!」
「……ぐ、う。問題、ありません」
土に半ば埋まってうめく榊は、したたかに打ちつけた衝撃で五体がしびれて動けない。
「後ろじゃ!」
そんな榊に、ドラゴンの爪が迫る。
爪先だけで頭よりも大きい、杭のような無骨な爪が。
木立の影、こうなっては遠すぎる距離。
環は目を剥きつつも動いていた。狐火を散らして屈み、跳ばんとする、まさにそのとき。
環は息を呑んだ。驚愕で足がすくむ。
初めての信徒が今まさに殺されようとしていることに、ではない。
「榊……?」
彼女はまだ、理解できていなかったのだ。
「――笑って、おる……?」
榊という男は、とうに真っ当な日本人であることをやめている。
ど、と空気さえ震えて、爪撃が地に落とされた。
木々は高く、土は匂い立ち、空を陰らせる巨躯は生命の熱気を放っている。
ドラゴンは狼狽えるように巨腕を震わせた。
「まったく」
ドラゴンの巨大な爪に隠れて、榊は笑う。
「信者と冒険者が同義と扱われるのも当然だな」
振り下ろされたドラゴンの爪を、両手で受け止めている。
桁外れの膂力。そのエネルギーが余波のように腕からほの白く溢れていた。
白光は腕から肩、背中へと伝い広がっていく。榊は体を起こした。ドラゴンの足を押しのけて。
「榊……!? 無事か!?」
「ええ。環様が示してくださる奇跡のお陰です」
榊は自分の腕を見ながら言った。
街の住人は顕現した神に慣れていた。信者は冒険者に向いているとも言った。
神の姿だけではない。
神の示される奇跡もまた、この世界にとって珍しいものではないのだろう。
榊は放り出すようにしてドラゴンの腕を放した。
直後、襟を引っ張られて榊の体が宙を舞う。
環が引きずってドラゴンから引き離したのだ。引きまわされる榊は、まさに飛ぶようにドラゴンの巨影が木々に遮られるのを見届ける。
「榊ぃ! この、ドあほう!!」
距離を取ったところで榊に顔を寄せる彼女は、蜂蜜色の瞳いっぱいに涙を溜めていた。
「死んだかと思ったぞ! 無茶をするな、あほー!」
「環様、ですが」
「ですがも案山子もないわっ! 榊、おまえいま、死ぬところだったんじゃぞ! 分かっておるのかっ!?」
はて、と榊は訝しそうに眉をひそめ、首を傾げた。
「もちろん承知しております」
「なにケロッとして……!」
「環様のためなら、別段、命など惜しくもありません」
環は口をつぐんだ。
泣きそうな顔のまま、榊の顔をまじまじと見つめる。
榊もまた、大袈裟に怯え泣きわめく環を困惑したように見つめていた。
「私は……」
榊は環の意を汲もうと懸命に思索を巡らせて、彼女の表情を見つめている。
安心させるように環の手さえ取って、恐る恐る声にした。
「稲荷様にお救い頂いた命、環様の御心のままに尽くしたいと思っています。身が果て、魂が潰えようと、怖くはありません。信仰を示せない己の怯懦こそ、私は恐ろしい」
「おぬし……。そうか、おぬしは」
噓偽りのない榊の真摯な瞳を覗き込み、環は弱ったように笑みをこぼした。
「おぬし、アホなのじゃな」
「未だ信仰の至らぬ身、申し訳なく思います」
榊は恐縮して頭を下げる。
ギギィと小さな声を漏らして大きな気配が動いた。ドラゴンは視線から好奇心の色を消し、真剣に二人を観察している。
ドラゴンの所作を見据え、環が細くささやく。
「わらわに何か、手伝えることはあるか」
困ったように眉を下げて。
「……見てるだけは嫌なんじゃ」
榊が答えあぐねる間にも。
ドラゴンは爪をぐりぐりと地面に突き、切なそうに口を動かして疼痛に呻いている。
いずれも榊が蹴ったり投げたりしたところだ。
「ふむ……環様。どうやら、お手を煩わせる間でもないようです」
榊は立ち上がる。腰を落とし、地面を踏みしめて、
駆けた。
ドラゴンが怯んで顎を引く。
猫じゃらしを叩くような右足をかわして榊は跳び上がった。身をひねり、身体を前に宙返りさせて、
「祝福あれ!」
かかと落とし。
ドラゴンと互角の馬鹿力が白光を放ち、ドラゴンの左中指、爪と指の間――甘皮に叩きつけられた。
「ギャ……ッ!」
ドラゴンは悲鳴すら途絶える悶絶でうずくまる。
素早く距離を取って残心の構えを取る榊。のたうち回って苦悶するドラゴンは、待ち構える榊と目が合った。
金の瞳に恐怖が走る。
ドラゴンは悲鳴を漏らして尻尾を巻き、這いあがるように逃げ出した。
「追います」
言うが早いか、榊が力強く地面を蹴ろうとした、その矢先。
「待て! 榊!!」
榊は止まる。
まるで茂みや草でも揺らすように、木の幹をバサバサとしならせてドラゴンが山に消えていく。
「速いのう。もう見えなくなってしもうた」
とん、と軽やかに榊の隣に着地した環がつぶやく。彼女もまた常軌を逸した身体能力を備えているようだった。
そんな環を横目に、榊は尋ねる。
「追わなくてよろしいのですか?」
「佳い、佳い。あれは若いドラゴンじゃった。人間が怖いと思い知れば迂闊に近寄ることもなかろう」
「ですが、それでは人が傷つく可能性を残すことになります」
だから依頼が発布されたのだ。
榊の忠言に「む」と唸った環は黙考し、小さくかぶりを振る。
「わらわは、一方の都合で他方を排斥するという発想は、極端なようで好きになれぬ。互いにぶつからない距離感を探る努力は、欠かすべきではないと思う」
逃げていったドラゴンの背を追うように、山の斜面に視線を走らせた。一心不乱に榊から――人間から逃げた痕跡はありありと残されている。
環は気弱そうな顔で榊を見上げた。
「希望的観測が過ぎるじゃろうか……?」
「いいえ」
榊はクスリともしない。真剣極まる表情でうなずいた。
「きっとドラゴンも、かけられた御慈悲のほどを知る日が来ましょう」
その断言には環が笑う。
「おぬし、負けそうになったくせにすごい自信じゃの」
「いいえ。私が信じているのは自らではなく、環様です」
「調子のいいやつめ」
他人事のようにうなずく榊を環はつついた。
「それと、もう二度と『命は惜しくない』などと口にするでないぞ。生きる邪魔になる信仰など捨てて構わぬ。神意に背いてでも生きて、そのあと懺悔でもなんでもすればよい」
じっくり考えてから、榊は深々と頷いた。
「……なるほど、まず生命を第一義にせよと。承知いたしました」
「分かってくれて嬉しいぞ」
げっそりと息を吐いて環は肩を落とす。
そして、もう一度山を見やって、噛み締めるようにうなずいた。榊に笑いかける。
「派手に動いたから、なんだかお腹減ったの。早く帰るとしよう」
「私は少し寄り道してもよろしいでしょうか」
ドラゴンと大立ち回りを演じた張本人が言い出して、環は首を傾げた。
「構わぬ、わらわも一緒に行くぞ。なにか用でもあったのか?」
「ええ、まあ」
榊は街を指差して、事もなげに。
「ゴブリンを退治してから帰ります」
「そんな依頼じゃったの!! そうじゃよ! ドラゴンとか関係ない、下水のゴブリン退治が仕事じゃ!!」
あまりにも完璧に忘れていた環は声が高くなった。依頼の内容を思い出し、へにゃりと狐耳が垂れる。
「……臭いのは嫌じゃなあ」
「環様は先に街に帰っていただいても」
「が、仕事を投げ出すのは嫌じゃし、信者に任せて高みの見物はもっと嫌じゃ。困っている人を見捨てるなどできようはずもなし。行くぞ、榊! まずは地道に徳を積むのじゃ!」
ぶるぶると無理矢理に気合いを引き出し、意気軒昂に歩いていく。
榊は忠実な従者のように、環の少し後ろを付き従う。
「御心のままに」
無論、ドラゴンと渡り合う男にゴブリンが敵うはずもない。
問題があるとすれば、ゴブリンが詰まらせた下水は話に聞く以上の悪臭で、環はおろか榊さえも辟易する有様だったことだろう。
好きなもの、なんたら!
主人公が冒険者になり、ゼロからのスタートで実績を上げていくところ……!
この展開は、もう本当、何回見たってワクワクしますね。流行ってくれて嬉しいです。この後の展開にもいくつかパターンがありますが、どれも味があって好き。
さて、今回はどんなパターンにしようかな……!




