榊、旅立つ
目を開けた榊は、山中にいる自分を発見する。
木立の密集する斜面のど真ん中だ。
枝ぶりの合間に見える青空は高い。酸素がかすかに薄く、木々は競い合うように幹を伸ばして赤茶けた木肌をさらす。腐葉土は高級な絨毯のように沈み込み、榊のスニーカーを受け止めていた。
服は死ぬ直前の普段着、ジャケットとデニムのままだ。手足を軽く振り、その場で数回飛び跳ねた榊は首を傾げ、うなずいた。
振り返る。
「どうやら異世界に到着したようです」
榊の背後に立っていた環は、うむ、と応じる。
稲穂色の髪から生える狐耳を震わせて、にっこりと。
「この世界へようこそ、榊。改めて、よろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
山のど真ん中で二人はお辞儀を交わした。
「して、これから如何いたしましょう。私は文字通りこの世界の右も左も分かりませんが」
「うーむ、そうじゃの。わらわもこの世で生きておったらしいが、今ひとつ現世の記憶が曖昧でな」
榊はぐるりと辺りを見回す。
山の中腹だ。散在する木に遮られて山頂も山麓も見通せない。
「とりあえず街に降りましょう。動物相手に説法しても仕方がありません」
「どっちが街じゃ?」
「あちらですね」
迷いなく手を下り坂に差し向けた。
「あの辺りの道は踏み固められていて、下生えも処理されています。地元の登山道でしょう」
「なんと……。おぬし、そういうの分かるのか?」
さっぱりわからんという顔で目を凝らす環に、榊は目を伏せて首を垂れる。
「気休め程度です。趣味で山に入ることが多かったもので」
稲荷神社の全国行脚に宿泊費や交通費を捻出できず、山で夜を明かしたのは一度や二度ではない。
感情を押し殺して淡々と応じる榊に、環は一瞬だけ寂しげな顔をした。が、またぞろ三日三晩狂喜乱舞されても困ると思って何も言わなかった。
二人並んで山を下り始めてしばし、榊が口を開く。
「不思議なものですね」
彼は自分の手を掲げ、何度も握って開いている。
「異世界、異なる理だと稲荷様はおっしゃいました。ですが私は五感が狂うこともなく、歩く感覚も昔のまま、平然と動くことができています。重力も感じる。とても異世界とは思えません」
「ああ、それか。うむ、それは稲荷様のお計らいじゃ」
ふんすふんすと、環は憧れもあらわに目を輝かせた。耳がぴんと立ち、行燈袴から出る尻尾が大いに揺れている。
「なんでも、おぬしをこの世界に馴染むように『打ち直した』らしい。着物を布団に作り変えるようにの。おぬしが現世の理から外れたからできる芸当だと仰っておった」
「私の身体は作り変えられているのですか。まったく実感がありません」
「それでこそ、じゃよ。違和感が残っておったら大変じゃ」
からからと環は笑う。その笑顔を横目に見て、榊も相好を緩めた。二人の旅は始まったばかりだ。
小高い斜面を越えた途端だった。
「うわ! なんじゃ、あれは?」
突然大きな柵が見えてきた。
その高さはまさに見上げるほど。四メートルを越す長さに揃えられた丸太が、下り坂の終端に設けられた門から左右にどこまでも続いている。
柵で区切られた領域は、一帯の盆地を丸ごと占めているようだった。
「なんでしょう、これは。山城や戦の陣地にしては腰を据えすぎていますね。この柵は何に対しての備えなのか……」
警戒を過ぎらせる榊の前で、門の木扉が蹴破るように開かれる。
中から干からびたチュニックを着た小太りの男が、ドタドタと慌てて駆け上がってきた。二昔も前の村落労働者という風体だ。
男は駆け寄るや否や、怯えた顔で勢い込んだ。
「あんたたち! なにやってんだこんなとこで!」
鬼気迫る詰問に榊と環は顔を見合わせる。
キョトンとした環の顔をじっくりと脳裏に刻み込んだ榊は男を振り向いた。
「通りがかっただけですが、何かまずかったでしょうか?」
「まずかったもなにも……!」
パクパクと口を喘がせて、男はようやく言葉を絞り出す。
「今、山の東側には、ドラゴンが来てるんだよ!!」
「どらごん」
環がまるで知らない国の食べ物でも聞いたかのようにつぶやく。
異世界。榊は口の中でその言葉を繰り返した。
好きなもの、そのよん!
山。
日々満員電車でビルの下をウロチョロしていると、山という非日常、異界、自然になんとも言えない憧れが出てきます。
物語の舞台としても、神秘的にして閉鎖的な山はうってつけ。世界が変わると物語が動く。何が起こっても不思議でない山のなかは、実に魅力的な空間だと思います。