榊、女神を見る
「狐耳で、可愛らしい少女の顕体を持つ神。あなたが祈るに相応しい女神です」
榊は真剣そのものの表情で、稲荷神の美貌を見上げた。
「一人称が?」
「わらわ」
「語尾は」
「のじゃ、と締める会話を聞きました」
びたーん! と榊が倒れ伏して、稲荷神はびくりと肩を揺らす。
「な、なんですか急に! 大丈夫ですか?」
「ありがとうございます……」
榊の声は震えていた。
「そのような神がこの世に存在することを感謝します……!」
数瞬、硬直していた稲荷神が、ガックリと深く肩を落とす。
「なにやってるんですかあなたは……。五体投地はチベット仏教の作法です、立ちなさい。それに、彼女がいるのは『この世』ではありません」
立ち上がった榊はようやく訝しげな顔をして、稲荷神の尊顔を臆面もなく見上げた。
「地獄の神なのですか?」
「いいえ。現世に隣接してすらいないのです。有り体に言えば、異世界、と呼べるのでしょう」
「異世界」
稲荷神の言葉をそのままなぞり、榊は首を傾げた。異世界。
不明瞭な榊を措いて、稲荷神は説明を続ける。
「彼女は異世界で新たに生まれたばかりの、まだ弱き神。縁あって私が目をかけていますが、所詮は別の理にある身ゆえ、できることはたかが知れています。あなたには彼女に付き従い、祈りを捧げ、そして助けになってあげてほしい。これはそういう、私からのお願いです」
「承りました」
「言うと思いました。もう少し話を聞きなさい」
稲荷神は真剣な表情で榊を見つめた。
唇を薄く開き、深呼吸して、神妙に言葉を紡ぐ。
「世界から離れるということは、あなたの魂は輪廻転生から外れ、祖霊とのつながりを失うということ。永久に寄る辺のない終生を送らねばなりません。それでも」
「構いません」
「……言うと思いました」
稲荷神は長いまつ毛を伏せる。細く長い吐息。
「あなたの信仰は真実のもの。彼女にはあなたの愚直な信念が、そしてあなたには彼女の柔らかな優しさが必要です。あなたたち二人ならきっと良い信仰を築けることでしょう。ですがその先、異世界にあなたの魂の行き場は――」
「稲荷様」
榊は稲荷神の御言葉を遮り、
深くお辞儀をした。
「構いません。構わないのです。私は私の信仰のためなら、地獄の業火も喜んで飲み干してみせましょう。私はそのように生きてきましたし、これからもそうです。ご存知のとおりに」
その深いお辞儀は、稲荷神への信仰を捨てた榊が自分に許すことのできる、最大限の崇敬の示し方だ。
下げられた頭を稲荷神は寂しげに見つめた。解けるように淡く微笑む。
「……まだ会ってもいないのに、よくそこまで言えますね」
「当然ですよ」
顔を上げて榊は笑った。
「稲荷様が縁をつないでくださる神なのです。信じられない道理がありません」
稲荷神は胸を衝かれたように息を呑んだ。
言葉が出ない唇を何度も震わせて、ようやく、
「……いけしゃあしゃあとよく言えますね。息をするように信仰を捨てたくせに」
稲荷神は口を尖らせて、そんなことを言った。
こればかりは榊にも誤魔化しようがなく、ただ罰が悪そうに笑う。
コホンと小さく咳払いをした稲荷神は気を取り直して指を振る。じわり、と無一面の一角に"存在感"がにじみ始めた。
「では、彼女をこちらに喚びます」
「私が異世界に向かうのではないのですか?」
「最終的にはそうですが。ここは時空から切り離された泡沫の夢のようなもの。ここで面通しをしておかなければ困るでしょう? ――環」
瞬間。
まるで空を裂いたように。
あるいは、最初からいたものに初めて気づいたかのように。
環は稲荷神の脇に立っていた。
「……お?」
つぼみのような唇からこぼれる声はコロコロと弾む鞠のよう。
ぱちくりと円らな瞳は蜂蜜色。長髪の髪先を背中で結わえた巫女髪は秋の稲穂のような黄金色に輝いて、頭頂部で震える一対の耳は大きく柔らかな狐耳だ。
稲荷神には劣るものの、紛れもなく隔世した聖性、神気を醸している。巫女装束の姿を借りた神が顕現していた。
榊に気づいた少女は、初夏の太陽のような笑顔を綻ばせる。
「おぬしが稲荷様がおっしゃっておった男じゃな? わらわは環という。稲荷様にこの名を賜ったのじゃ」
「さあ、榊」
凍りついたままの榊に、稲荷神は平坦な声を向ける。
「喜ぶなら今です。存分に喜んでおきなさい」
榊は爆発のような快哉を上げ、湧き上がる歓喜にどこへともなく駆けだした。
ちょっとびっくりした顔で環は走り去る背中を見送る。榊を指して稲荷神を見上げ、沈痛な表情でかぶりを振る美貌を目の当たりにした。榊を再度見やる。榊は地平線を走っている。
なるほど、と環はうなずいた。
「ちょっと変なやつなのじゃな」
そして三日が過ぎた。
-§-
「改めて、わららは環じゃ」
「榊と申します。微力を尽くす所存です」
ようやく落ち着いた榊と環は挨拶を交わした。
相変わらず見栄えのない白一面の世界でも、神なる美麗が二柱あれば華やかさは有り余る。榊はまばゆそうに目を細めた。
そんな榊に稲荷神が声をかける。
「環はまだ自分が何の神かも分かっていない、神の階梯に上がって間もない存在です。彼女が善き神になれるよう、榊、あなたが導いてあげてください」
「稲荷様、それはできません」
早々に榊は反駁した。
目を大きくして驚く稲荷神を見上げ、榊は切々と告げる。
「どのような神になるかは環様、御自らがお定めになるべきこと。一信徒に過ぎない私が口を出すことではありません」
「いいえ、それは誤解です。私は初めから経済を司る神ではありませんでした」
稲荷様がゆるやかに首を左右に振ると、揺れる髪先から光がこぼれるかのようだ。柔和な微笑を榊に向けて優しく諭す。
「神は自然に成るものではありません。神にどのような利得を求めるのか、神はどのようなご利益を授けることができるのか。これは相互対話によって作り上げていくものです。もちろん、最終的には環が決めること。ですがあなたの信仰と本願が大いに影響することを忘れてはなりません」
「なるほど……」
榊はつぶやき、環を見た。
まだ十代そこそこという幼い外見に不安げな表情を浮かべて、榊を窺っている。とても確固とした神格を持っているようには見えない。
「なるほど。私の不明でした。環様のためになるよう、最善を尽くします」
「お願いします。さて環、あなたにはこれを」
稲荷神は羽衣の裾から巾着袋を取り出した。
臙脂色の布に金糸の刺繡も繊細な、手のひら大の手縫い袋だ。稲荷神社の銘が縫われている。
環の小さな手に乗せて、稲荷神は微笑む。
「手製のお守りです。開けてみてください」
「ありがとうございます……え、お守りを開けるのですか?」
首をひねりつつ口を引っ張った環は、中から木札を引っ張り出した。
表面に焼き印のような焦がしで、100ptと印されている。
むむむと首のひねりを深くする環に、稲荷神が教える。
「それは信仰ポイントです」
「は?」
いわく、環の集めた信仰を大まかに数値化したものだという。巾着袋から取り出すたびに不思議な力で焼き印が新しく更新される。
「善行を積み、人々の信仰を集めることでポイントは溜まっていきます。当面はそのポイントを集めることを目的とするとよいでしょう」
「なるほど」
横で聞いていた榊がうなずく。
「改宗をさせればよいのですね?」
「話を聞いていましたか?」
稲荷神はにっこりと微笑んで凄みを利きかせた。
「口だけの信仰告白も、形式的な礼拝も、ポイントの足しになりませんからね。地道に徳を重ねなさい。千里の道も一歩からです」
「はいっ! 榊、頑張ろうぞ!」
気合十分な環とは対照的に、しおらしく了解を示した榊は残念そうだ。これで短絡的な力技を好む男である。稲荷神社歴訪を完遂する程度には。
稲荷神は楚々《そそ》と手を広げた。白しかない世界から急速に色が失われていく。
「では、早速二人を異世界に送りましょう。頑張ってください。二人の躍進を期待していますよ……」
そして、濃密な森の匂いに押し包まれた。
好きなもの、そのに!
神社と神道。
※以下、聞きかじりで感心したエピソードを記憶に頼って書き連ねているので、勘違いが含まれている可能性が大いにあります。
ぜひ、裏取り・ファクトチェックをしてみてくださいね。
クラシックで落ち着いていて荘厳で、生活に密着していてどこか緩い。
そんな神道。
土着の信仰と古事記、日本書紀(二つ合わせて記紀といいます)とで微妙に隔絶があったりするのもチャームポイント。
氏神ってなんか、設定にバブみありません??
生まれたときから、あるいは引っ越してきたときから見守ってくれる、その土地だけの神様ですよ。ご当地限定の神様ですよ。尊い(直喩)。
あと神様って、神様だから分社やお守りに分割されても全然大丈夫で「お守りだからご利益が少なめ」みたいなことはあり得ないんですよ。本社にお参りするのは、単に信者の気持ちの問題。感謝の気持ちをどう表すかという話に尽きます。
ご利益そのものはどこに行っても、同じ神様からは同じように頂けます。問題ありません。
なんか可愛い主張ですよね。
テーマにした稲荷様って狐系で種々創作に大人気ってだけじゃあない。
経済にも造詣が深くて、なかには社屋に社を設けた企業もあるんですって! 老若男女問わず、そしてバリバリのビジネスマンにもゴリゴリのオタクにも広く信仰されてるって、すげぇですよね。
個人的にすげぇと思うのは、名物「千本鳥居」に見られるような、特徴的な真っ赤な鳥居。
あれ、「江戸時代に流行った」からこんなに有名なんですよ。ムーブメントで神社を流行らせる。萌えキャラ町おこしみたいなもんですね。いや、すごいと思います。
お稲荷さんになるのも伊達じゃない。
おあげ。