榊、環の命を背負う
「環様が、死ぬ? それはどういうことだ」
榊はセナの言葉を訝った。
環は榊の横でキョトンとして立っている。
菖蒲色の着物から覗く細い腕、小豆色の袴から揺れる膨らんだ尾、稲穂色の髪を結う矢絣模様のリボン、頭頂部に生える狐耳。どこをどう見ても変わらない姿だ。
死に瀕する理由は見いだせない。
「言ったでしょう? 環ちゃんは神。祈りを受け取り、祝福を返す生き物だって。それは呼吸みたいなものなのよ」
セナが淡々と言う。
「だから、信者が絶滅した神は己の存在を保てない」
信仰されない神など、神ではない。神が神でなくなったとき、その神は死ぬ。
榊は愕然とした。
「では私は、幾度となく環様を危険にさらしていたのか?」
「……ま、どんな形で信仰を示すべきかは、信者と神次第だけど」
セナは明言を避けて肩をすくめる。ヒラっと手を上げて背を向けた。
「どうするにせよ、もっと信者を増やしてからにしなさい。環ちゃんを大事に思うならね」
散歩にでも出掛けるように、セナは出ていく。
呆然と立ち尽くす榊の手を環が取った。
「榊。気に病むでないぞ。わらわさえ知らなかったことじゃし、わらわを生き永らえさせるために己の意志を殺すなど、本末転倒じゃ」
「いえ。いいえ。私の行動はすべて、後に残る環様を念頭に置いてのこと。その前提が崩れたら、私は……」
榊はそこで言葉を途切れさせた。
「私は……」
「よい」
言い淀んだ榊に、環は笑う。
どこまでも明るく、心底から嬉しそうな笑顔で。
何度もうなずく。
「良い、好い、善い。よいぞ榊。それでよい、それがよいのじゃ」
「あの……環様?」
榊は困惑した。
環の喜色は唐突すぎた。環にも自覚があったのか、はにかんで狐耳の後ろをかく。
「ああすまぬ。ちょっと先走ったな」
ふうと一息。呼吸を整えた環は微笑を湛えて口を開く。
「お主は今、わらわを優先するべきか、己の行動を優先するべきか迷ったじゃろ。つい昨日までなら、お主は何もかもを擲ったじゃろう。でも今は、迷う程度には自分の心を見つめている」
そうだろうか。榊は己に問うように自分の手を見つめた。
榊の横顔に、環は告げる。
「行きたいのじゃろ。あの門番と決着をつけに」
榊は顔を上げた。
その眼差しを尊重するように環は深くうなずく。
「理由は知らぬ。問いもせぬ。なんであれ構わぬ。正義でも、復讐でも……。わらわは、お主がお主らしく生きる、その支えとなる神でありたい。じゃから、のう、榊よ」
環は榊の手を、強く握った。
笑う。祝福するように。
「行け。お主の心のままに。わらわはそれを見守ろう」
榊はしばらく返事をしなかった。
言葉に迷った。自分の心に迷った。
環の言うように、榊は彼自身の行動を望んだのか? 迷いは榊の目に明確に浮かび、
そして、気づく。
今、榊の心に、環の意向以外のものがあることを。
環の身を危険にさらす理由が『あるのではないか』と己の心に問うている、まさにその自分を。
行けと。環はそう言った。
榊は深く礼する。
「御心のままに」
即ち、己の心のままに。
§
階段を降りて、榊たちは声をかけられた。
「あの、門番くんを止めに行かれるんですよね」
女将は待ち構えていたようだった。申し訳なさそうな顔で躊躇いがちに榊を見上げる。
「門番くんに刺されたのに、こんなこと頼むのは間違いだって思うんですけど……でも、あの。門番くんは、」
「分かっています」
階段を降りて、榊は女将にうなずく。
門番の押しつけがましい恩を、女将がどう受け止めたのかは分からない。だが彼の存在を悪く思っていないことだけは確かだった。
「殺すつもりはありません。生きたまま捕らえ、罪を償わせます」
女将は息を呑んでいた。
あぁ、とため息のように緊張を解いて両手を合わせる。そして姿勢を正し、榊に向かって頭を下げた。
「どうか、彼をよろしくお願いします」
頭を下げる女将を前に榊は環を振り返る。環は満面に笑みを浮かべて大きくうなずく。
榊は自分に苦笑した。事あるごとに確かめるなど、まるで歩き始めたばかりの子どものようだ。
顔を上げた女将は、奥歯にものが挟まったような顔で目を泳がせた。
「……あの、もしよろしければ、なんですけど……」
女将の目は榊を見ていない。窺うように環を覗いていた。
「環様に祈らせていただいても、よろしいですか?」
二人は顔を見合わせる。
だがおかしなことはない。環は神なのだから、祈られるのは当然だった。環が応じるのを見て、榊は脇に下がる。
「どうぞ」
しずしずと環の前で膝を突いた女将は、両手を組んで目を伏せる。神式の祈祷ではなかった。だがその真剣な面持ちには偽りなく、真摯な祈りが込められている。
榊は頬をほころばせた。奉じる神を祈られるなど、日本を含めても初めての経験だ。
と、環が急にピンと耳を立てた。驚いた顔でうろたえる。
真剣な祈りの最中に声をかけるわけもいかず、榊もまた戸惑って祈りが終わるのを待った。
やがて面を上げた女将は、立ち上がって深く一礼する。
「榊さん。あなたに幸運を」
「こちらこそ。あなたに幸多からんことを」
言い交わす間も環はソワソワと落ち着かない。そそくさと逃げるように宿を出て、
玄関扉を閉めた途端、環は慌てて懐をまさぐる。
「どうされました?」
「なにか、妙にこそばゆい感じがあってな。まさかとは思うのじゃが……」
取り出したのは、稲荷神謹製の巾着お守りだ。口を開けて木札を引っ張り出す。
取り出すたびに更新されるという焼き印でのポイントが、
101pt、となっていた。
札を見つめていた環は、耳を伏せてお守りを胸に抱く。
「……間違ってはおらんのじゃな。わらわたちは」
「当然です」
榊は微笑む。力強く。
「あなたは、私の神なのですから」
くふっ、と環は笑った。茶目っ気のある半眼で榊をにらみつける。
「調子のいいやつめ」
榊は笑う。
微笑の残滓を頬に残し、環は顔を曇らせた。
「のう榊」
「分かっています」
榊は先んじて応える。
いつも通りの確信にあふれた態度で胸を張っている。
「さらさら死ぬ気はありませんよ。この女将に布教する気はないようですし」
相変わらずピントのズレた返事だった。
「期待しておる」
「応えてみせましょう」
「では、ゆこうか」
山へ。
好きなもの
どうしようもない善人。
この女将みたいに、優しすぎてにっちもさっちもいかなくなって、それでも人を見捨てることができないような。
たぶんあの人、「大切な人が二人溺れている、助けられるのは一人だけ」系の質問で二人とも助けようとして溺死するタイプですよ。
救いようもなく、救われない、毒でさえあると分かって、それでもやめられない性分の人。
榊とは真逆ですね。




