榊、死んでなかった
それは榊がまだ子どもだったころ。
恋や愛といったものがテレビやマンガで取り沙汰され、学校の異性とも「そういう」ことになるのだろうか、と異性を意識し始めた時期だ。
季節はすでに記憶にない。
暑かったか、寒かったか。そんな俗世の些細な思いは、ひと目で消し飛ばされてしまった。
(きれいだ)
近所の稲荷神社だった。
境内の外れで、森の中で、榊は拝殿の前に立つ女性を見た。
凛と立つ背筋の伸びた佇まい。新雪のような白く柔らかい長い髪。後光のごとき羽衣の揺れる艶姿。なにより目を引いたのは、頭頂部に生える一対の狐耳だ。
幼い榊は言葉を失った。現実さえ見失った。
無理もない。
その美しさは明らかに浮世離れしていた。
彼女の流麗さに比した俗世の、なんと薄汚いことか。
まさに正しく正視に堪えない。
(きれいだ)
そのとき榊は恋をした。
あるいは、恋さえ超越するなにかを。
彼女は榊を振り返ることさえなく姿を消した。後には胸を詰まらせた榊だけが残される。
榊の脳裏にひとつだけ、いやにくっきりと焼きついていた。
すべての人の理想とさえ言えそうな美女が唯一それのみ「完璧」から距離を取った"玉に瑕"。
狐の耳。
榊は殴られたように跳ね起きた。頭を押さえて顔をしかめる。
寝台だった。
シンプルな板張りの部屋に榊は寝かされていた。窓と簡易なクローゼットがある程度の小さな部屋。榊たちが借り受けた宿の部屋だった。
「あっ! 榊!!」
声がするが早いか、榊は腹に衝撃を受けて体を再び布団に沈める。
熱い重み。
榊が体の上を見ると、小柄な人影が尻尾を丸めていた。
「環様」
呼びかけられて顔を上げた環は、ぐしゃぐしゃに泣いている。目と鼻を頬を真っ赤にして口を大きく開く。
「榊っ、この……あほっ!!」
罵倒した。
「なんであんな無茶をしたのじゃ! まず生きろと言ったじゃろ!」
「確かに、迂闊でした」
榊は殊勝に目を伏せる。
上着は白い襦袢に着替えられている。腹に痛みは残っていない。すでに完治しているようだった。"奇跡の回復"だ。
榊は傷のあった脇腹をなでる。
「腹部の刺し傷で即死するまいと軽く見ていました。深く刺されると違うのですね」
「そんな話はしとら――んッ!」
環は目を見開いて怒鳴った。
「命を危険にさらすなと言ったんじゃ! わらわは信者が死ぬところなど見とうない! ましてや……っ!」
ぎゅぅ、と環は布団をきつく握りしめる。唇をかんでうつむいた。
目をつむって、絞り出すようにつぶやく。
「ましてや、わらわに向けてもいない信仰を言い訳にされたんでは、やりきれぬ」
榊は絶句した。
信仰を、向けていない?
「環様!」
「よせ。榊の献身は確かにわらわに向けてのものじゃ。じゃが、お主はわらわを奉じていても、わらわのことを信じてはおらぬ」
榊は布団の上で喘いだ。言葉に詰まった。
どこから反論するべきか、そして反論することに意味があるのか。
疑義は、環その人から発せられているのに。
「のう、榊。お主にとって『奇跡』とはなんじゃ?」
質問の意図を榊は理解した。
榊は言い放ったのだ。「神が目に見える奇跡などもたらすものか」と。
「……我欲です」
榊はうめく。
「奇跡だと謳うと、ただの現実を『自分のために誂えたもの』と思いあがる。神は――世界は、そんなに易くない。私はそう思います」
「奇跡あれ」と叫ぶのは、いつだって「思い通りに世界が変われ」と願う者だ。
稲荷神の導きも、環という女神も。
巡りあわせを榊が喜んでいるだけ。
誰かのために、何かが起こったわけではない。
「だから……だからこそ私は、せめて私自身だけでも、環様のために在りたいと――」
苦しむ榊の手に小さな手を載せて、環は小さく首を振る。
「奇跡があるのかどうか分からぬ。だが、わらわは誰かのために示せればよいと思っておる」
榊は息を呑んだ。
同時に思い出す。
榊の振るう膂力こそ、紛れもなく環が賜う祝福だ。
環の伏せられた長い睫毛が震える。視線を泳がせ、唇を尖らせた。
「お主がわらわを信じておるのは、稲荷様がわらわを信じよと勧めたからじゃ。お主が忠誠を誓っておるのは稲荷様のお言葉じゃ。でなければ」
環が榊を見上げる。
「でなければ、わらわとお主でこれほど思いがすれ違うものか」
その上目遣いに、榊は顔を苦痛に歪めた。
「稲荷様が縁を結んでくれる神だから信じられる」と、そう言ったのは榊自身だ。覆すだけの絆を積み上げるには、2日という時間は短すぎる。
それなのに、環のために命さえ差し出せる榊のほうが歪なのだ。
様々な弁明が榊の胸で嵐のように吹き荒れる。歯を食いしばって上っ面な口先を堰き止めた。今必要なのは言葉ではなかった。
ふふ、と環は息をつく。
「やはりわらわは、もう神なのじゃな」
寂しそうに、そんなことを言う。
「稲荷様の一言のためにわらわをここまで信じられる、お主の稲荷様への信頼が……いや、お主のそれを向けられうる稲荷様が。少し、羨ましい」
敬愛する稲荷様じゃのになぁ、と環は笑った。
榊はそんな環の手を両手にいただく。宝石を包むより優しく丁寧な手つきで握る。
「私は……私の信仰は」
その言葉さえ途切れた。
環がかぶりを振って、それ以上の言葉を拒絶したから。
「今は――仕方ないと思う。わらわは未だ何者でもなく、お主に何を示せるでもない。お主に信じてもらうべき自分が、わらわにはない」
じゃから、と環は言う。榊の目を見る。
挑むように。臨むように。
握る手に力を込めて環は願った。
「じゃから、待ってほしい。お主の献身に相応しいわらわになるまで。お主に示すべき道を、わらわが見出せるまで」
どんな信仰のあり方が正しいのか、それを榊に示せるように。
もう二度と、環のために命をかけることのないように。
「死んではならぬ」
言葉がくだされる。
榊は言葉を封じ、ただ深く伏して応じた。
コンコン、と木の柱が叩かれる。
見れば、セナが柱をノックした拳をほどいていた。素っ気ない顔で榊を見ている。
「まだ動かないほうがいいわよ。失血を補えるほど私の治癒は強くないから」
「お前が助けてくれたのか。ありがとう」
セナは肩をすくめた。椅子を寝台の横に引いて腰掛ける、その動作がどこか硬い。
「あの男が刺したって?」
まるで世間話のようにセナが言う。
知っていて、話の糸口のために口にしたのだろう。榊の返事を待たずに続けた。
「どうする?」
「……どうするとは?」
「山に誘ったのも私、あの男の傷を治したのも私、あの男を任せたのも私。代わりに動くくらいの義理はあると思っているんだけど?」
「何を聞き出したいんだ」
あえて核心を避けたような物言いに、榊は顔をしかめる。
セナはちらりと環を見てから、言った。
「あの男を殺したいなら、動けないあんたに代わってあげる」
環が息を呑んだ。
榊は表情を変えずに黙って聞いている。
「それだけのことをしたわ。あんたを殺そうとしただけじゃない。ドラゴンを招いたことも、……今も」
痛いような静けさの中に、街の遠くで鳴らされる鐘の音がガランガランと虚ろに響く。
警鐘だ。街に危険が迫っている。
セナの顔には、苦しげな表情がにじみ始めていた。
「この街と引き替えにしてでも霊薬がほしいみたい。変な薬……怪物を招く香水でしょうね。山ほど塀に撒いていったわ。有象無象が押し寄せてる。たぶん、ドラゴンごと」
そこでセナはまた環を見る。
榊が気絶している間に、ドラゴンを追い払った顛末を聞いたのだろう。わざとドラゴンを逃したことも。
「ドラゴンがここまで来れば、私は狩らなきゃいけない。市民の安全には代えられないから」
セナはガントレットの拳を握って言った。
手のひらに踊らされていると分かって、それでも避ける選択肢はない。歯がゆさを握りつぶすように。
「すでに怪我人は一人や二人じゃない。あの男は明確に人類と敵対したわ。身勝手な片想いのためにね」
「身勝手……か」
榊はつぶやいて、わき腹をさする。古傷さえ残らない驕りの傷痕だ。
病に苦しむ想い人を助けるため。"彼女のためなら、己の身を犠牲にしてでも"。
既視感に不思議はなかった。だから榊は彼の暴走をいち早く見咎めることができたのだ。
セナはフッと息を吐いて肩を落とす。あくまで軽く、世間話のように榊に尋ねた。
「で、どうする? 殺す?」
聞いていた環は耳を押さえて目をきつく閉じる。神は見ていないと、正直な心のうちを吐き出せるように。
榊は笑い、手を伸ばした。
環の手を耳から離させる。
「セナ。お前は市民の護衛を頼む。冒険者が足りないのだろう。防衛は手が回っていないはずだ」
「そうだけど……」
「自分のケジメは自分でつける」
榊が言い放った言葉に、環もセナも目を丸くする。
ガタリと椅子を蹴立ててセナは立ち上がっていた。
「あんた。動けないって言ったでしょう!?」
「怪物の群れを相手取ろうってわけじゃないんだ。ゆっくり行けば問題ない」
「一度負けたのよ? 万全じゃない状態で行ったところで、なにかできるとは思えない」
「あれは遠慮したからだ」
榊は右手を見せる。仄白い光が漂った右手を。ドラゴンさえ殴り飛ばした、環の祝福。
榊は笑った。
「四肢が折れればナイフは刺せまい」
気負わない言葉に、抗弁を見失ったセナは環を見た。まるで助けを求めるように。
「環ちゃんはいいの?」
「わらわは人にどうこう言う前に、自分を見つめねばならぬ」
だが環はセナを見返さず、榊を見ていた。
彼女の信者は榊だけだ。環はうなずく。
「言うべきことは言うた。榊が何を思い、何を決めるか……それは榊に任せることにする」
セナは言葉を探すように視線をさまよわせ、榊と目を合わせる。
肩を落として投げやりに首を振った。
「勝手になさい」
「そうしよう」
うなずく榊を尻目に、セナは立ち去ろうと立ち上がる。
ふと足を止めて振り返った。
「榊、あんたにひとつだけ忠告しとく」
「なんだ?」
「死んじゃだめよ」
字面は環とほぼ同じ、しかし温度感は天地ほど違う。
ただ事実だけを述べるようなつまらなそうな声で、言った。
「あんたが死んだら、環ちゃんも死ぬんだから」
好きなもの!
主人公が仲間とともに再起の準備を進めるシーン。
ワクワクしてきますね。




